究極の催眠療法

 禅仏教の思想は現代心理学など及びもつかないくらいに優れているといえるだろう。私はその禅仏教の知見を参考に西欧で発生した通常の心理学とはまた違ったユニークな視点から催眠を見ることができた。また私は怠け者で修行を怠り未だ悟りには程遠いが禅修行をやってきた。そして禅修行と催眠療法は実は非常に共通した道程をたどる事がわかった。

 禅では、大きな忘我状態に至った後で認識が戻り、その時に「自分というものがあると思い込んでいたが、本当は今瞬間の事実しかない」とわかるという。仏陀は菩提樹の元で瞑想に入った後、まず明けの明星を見て悟った。その時「奇なるかな奇なるかな山川草木悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」と喜んだといわれている。悟ってみれば山川草木など森羅万象が宇宙の生命の現れであり、すでに全てが救われていることがわかったのである。そんな悟り体験の話しから、私は禅仏教のあり方は究極の催眠療法といえるのではないかと思ったのである。

 私たち現代人は、自我意識の思考が物事をより良い方向にしていく一番の良い手法であると思い込んでしまった。思考の申し子である科学の発達によって昔より便利に安全になったことからその価値観は世界を席巻している。現代科学の発達によってもう取り返しがつかないくらいに地球を壊してしまっているかもしれないのに。物質界のみにとどまらず、身体の世界においても科学的思考が解決するとして医療が発達してきた。そして最後には心理学によって心を解明しようとしてきたのである。

 けれどもそんな人間自我の打ち立てた心理学などの計らいや工夫を中心にすえて催眠療法するのでなく、この世に展開している宇宙生命体や自然治癒力の働きに委ねることを中心にするのが究極の催眠療法ではないか。

 通常の催眠療法では催眠誘導者のリードによって被催眠者は忘我状態に入る。我を催眠治療者に委ねていくのである。治療者側は被催眠者を巧みにリードして催眠トランス状態(忘我状態)に導く。その治療効果のある無しは、治療者の力量いかんにある。下手な治療者にリードされれば催眠状態に入ることさえできない。力量ある催眠治療者の最たる人物として米国にミルトン・エリクソンがいた。けれども車椅子の魔術師とも呼ばれたミルトン・エリクソンとて宇宙生命体の働きにはかなわないのだ。

 仏陀を始めとして悟りを開いた祖師方は「ほんとうは自分というものは無い。自我意識が気づこうと気づかまいと、事実は先に始まり先に終わっている。とっくに救われているのだ」という。事実とは人間が考え想像する思考や空想の世界と別の天然の動きのことである。言い換えると究極の催眠療法はすでに実際に働いているのだ。当人がそれと気づかないだけなのである。

 脳科学者ベンジャミン・リベットは私たちの意識は自らの体験を0.5遅れてキャッチするのだが、そのタイムラグはないものとして受け止めているという。要するに事実は0.5秒先に起こったことなのに意識はそれを今起こったことと勘違いしてしまうのだ。確かに意識していない範囲で、外界の音を聞くともなく聞いていたことに後から気づく。ベンジャミン・リベットは医師の協力を得た実験から、動作することも耳や目と同じに身体が先にやっているという結果が出たというのである。この実験結果からしても、究極の催眠療法は常に0.5秒先にそれも全ての人にすでに行われていることになる。

 催眠では我を忘れるにしたがって催眠状態に深く入るようになる。そして記憶支配と呼ばれている催眠で一番深い状態がある。その際には被催眠者はそこから覚醒した後に、その時の記憶がまったく覚えていないくらいの忘我状態になる。これが禅の悟り直前の忘我状態とそっくりなのである。(我が元々はないからこそ催眠状態で記憶支配といわれるような、また悟り体験で起こる全く何も覚えていないような深い忘我状態が起こるのであろう)そこで同じ我を無くする位なら、限界ある人間の治療者に対して我を委ねるのではなくて、宇宙生命体に対してそうなれば一番良いのではないかと思うのである。

 しかし悟り体験のない私はまだいくらか半信半疑である。でもとにかく自我が思い込んでいるだけならそれをに気づいて本当にそうなのかどうかを知りたい。催眠療法に携わってきた私としては、ここを避けて通るわけにはいかないのだ。そこで究極の催眠療法を体験したいがために坐禅修行によって我の計らいや余計な思考を捨てさっていく修行をしているのだが。

★参考文献:HP『マインド・タイム』 HP『意根を断つ 今一度坐禅について 前編』