症例『アンナ・O』

 ブロイアーとフロイトの共著『ヒステリー研究』におけるアンナ・O(仮名)の症例は催眠療法におけるカタルシス法の始まりの事例というだけでなく、現代における本格的な心理臨床の治療過程にも通底する大きな問題(転移・逆転など)をはらんだものとして示唆に富んだ事例でもある。

 催眠療法には精神分析における転移・逆転などのような、援助的人間関係におけるノウハウが全くない。そのために今でも、ややもするとアンナ・Oに対するブロイアーの二の鉄を踏んでしまっているようなレベルの催眠療法家もいる。催眠療法士は催眠療法を学ぶだけでなく援助的人間関係におけるノウハウもしっかり学ばなければ一人前にはなれないのである。

 そこで以下にフロイトとブロイアーの共著『ヒステリー研究 上巻』と、リチャード・A・スクーズの『フロイトとアンナ・O』を元に、さらに心理療法における転移・逆転移を学ぶにふさわしい伊藤良子氏の著書『心理治療と転移』と『心理療法論』を参考にしながらアンナ・Oの症例を、援助的人間関係のあり方も含めて見ていく。……伊藤先生は日本の心理療法をけん引してきた京都大学において河合隼雄先生や三好暁光先生の元で、ユング心理学からラカンの精神分析学まで深く精通した。そしてより難治のクライアントを治癒に導くかたわらでの臨床心理研究において、より深く進んだ転移論を打ち出している……

 アンナ・Oはユダヤ系の裕福な家庭の子女であったが、神経性の咳の発作をきっかけに神経科の開業医だったブロイアーに1880年に治療を受けはじめた。しかし、その後も、身体の衰弱や知覚の障害、運動麻痺、摂食障害、視覚異常、幻覚、言語障害などの多彩な症状(後にブロイアーがアンナ・Oの治療から手を引いた時にピンズワンガーに送った報告書の中にはヒステリー性の重症神経症及び精神病と診断していたようである)にみまわれた。父親が亡くなった(1881.4)直後には二日間深い昏迷があった。その後には持続的な夢遊状態もあったようである。

 ブロイアーの病歴報告によると、彼女は非常に優れた知能や驚くほどの鋭敏な総合判断力、直感力、さらに豊かな詩的才能、空想的才能が備わっていた。また非常に厳しく自分を律する面があった。21歳まで一度の恋愛もなかったようである。彼女の気分は常に極端に揺れ動く傾向が幾分かあり、気まぐれでもあった。そして彼女には本質的な特徴として、思いやりのこもった善意があって、そのためには強情なまでになる自分の意志も諦めるにいたったし、また幾人かの貧しい病人の世話をしてもいたのである。

 ブロイアーの催眠による症状を除去するための直接暗示はアンナ・Oには全く効かなかった。でも多彩な症状が次々展開する大変なアンナをブロイアーは献身的とも言えるくらいに多くの時間をさいて熱心に治療にあたっていた。アンナの方もブロイアーを唯一頼りにしていたようで、彼にだけ語った。また自分では食事をしなくなっていた時期には彼から直接食べさせてもらったりもしている。

 ブロイアーによると、アンナ・Oは自ら催眠状態に入る人であった。それはいつの間にか催眠トランスに入っているような状態であったようで自己催眠というより自動催眠とでもいえそうな、ちょっとわかりにくいトランス状態である(たぶんブロイアーが催眠誘導した事をきっかけにして彼女自身でいつの間にかそれができるようになったのかもしれない)その状態を彼女自身で”clouds”雲と名づけていたくらいだから彼女にとってはかなり心地よい状態ではあったのであろう。

 彼女は日没頃によく、そのような自動催眠に入っていた。そしてその時その日にあった幻覚を物語ることが出来た時は、覚醒後に、明晰で落ち着き快活になった。アンナ自らが始めたそのやり方が効果的だったために次第にそれを頻繁にやるようになっていった。アンナ自身はそのようなやり方を”talking cure”談話療法とか(心の)煙突掃除と名づけていた。

 そしてブロイアーが非常に驚くようなことがトーキング・キュアにおいて起こったのである。それは彼女が自らが催眠状態に入って過去の強く激しい否定的な感情を伴った記憶を思い出し話すことで即座に症状が劇的に消えてしまうというものであった。

 ある時アンナ・Oは自ら催眠状態に入って偶然、彼女が(実は)嫌いな女性家庭教師に対する悪口を言った。それから、彼女は嫌悪の情もあらわに、その家庭教師の部屋に入って行ったときのことを話した。それは「家庭教師が小さな飼い犬(彼女の言では、気持ちの悪いけだもの)にコップで水を飲ませているのを見て強い嫌悪感に襲われた。でもアンナはぶしつけになってはいけないと、このことを言うのを黙っていた」というものである。談話療法によって、この記憶と溜まっていた怒りを更に力いっぱい出し終えた彼女は、水を飲みたいと言った。そして大量の水を飲み、唇にグラスをつけたまま催眠から目覚めたのである。

 アンナは強度の自殺衝動が出た際に(1881.6月)田舎の別荘に移されていたのだが、一年後のその日を記念日として、それまでに全てを卒業せねばならないと心に決めてトーキング・キュアに励んでいった。そして多くの症状から解放されるに至っていた。そしてアンナ・Oことベルタ・パッペンハイム(1859-1936)は1882年に6月にブロイアーとの治療関係を終えてから、ビンスワンガーの父のサナトリウムに入所する。

 しかし、後にヒルシュンミューラーによって発見された資料のなかにあった、この頃のブロイアーがピンズワンガーにあてた手紙や治療の経過報告などによると、この時期アンナ・Oには新たな症状が出現していた。入院直前のアンナの状態として「のたうちまわるような麻痺発作」「真実かどうかわからないあらゆる種類の作り事」「モルヒネ注射以外では、私にはおさめる手立てをなくした興奮状態」などが記されている。この手紙の内容からすると、一年間というアンナの決めた終結ではあったが、治療的には完治には至らなかったのである。

 カタルシス療法によってある程度のヒステリー症状の改善はあった。しかしアンナ・Oの新たなる激しい症状にブロイアーはなすすべがなかったのは事実であろう。後にフロイトによって「転移」と概念づけられた、ブロイアーの寝食も時間も抜きにして尽くすという献身的な(ケジメのない)治療態度によって引き起こされたもの。よりブロイアーを求めてやまないアンナの感情や、そこから引き起こされる二次的な激しい症状にブロイアーは対処しきれなかったのは確かなようである。ブロイアーは、彼女をピンズワンガーの経営するサナトリュウムに送り出し、自分は治療から手を引いたのである。しかし彼はこの結末をフロイトとの共著「ヒステリー研究」には載せてはいない。

 このブロイアーとアンナ・Oとの治療終結に関しては、フロイトが自らの想像を交えて話したことや、フロイトの生涯を書いたアーネスト・ジョーンズの、事実を曲げ、膨張した記述などから諸説が飛び交ってしまった。その結果、現在の心理療法関係者においても、それらの説の中のどれかを信じてしまって誤解や偏見の中にいるのである。ブロイアー自身はアンナ自らが治療を一年後に終わらせると決めていたので、それに沿って治療を終結したと言っているのだが。

 例えばフロイトは1932年にS・ツバイクへの手紙の中でブロイアーから聞いたことを元にフロイト自身で再構成した、この間の経過を次のように述べている「彼女の全ての症状が克服された後、ある日の夕方、彼は再び彼女の所に呼ばれると、彼女は下腹部の麻痺を起こしてのたうちまわり、錯乱していたのです。どうしたのかと問われて、彼女は答えました。B博士からもらった子供が今生まれてくるのだと。…中略…因習的な驚きにかられて彼は逃げ出し、一同僚にその患者を委ねてしまった。彼女はさらに何ヶ月も療養所で回復のための苦闘をすることになりました」と書いてある。

 また(フロイトの伝記を書いた)アーネスト・ジョーンズによるとブロイアーがアンナ・Oにすっかり心を奪われてしまって、妻が嫉妬して、うつになり不機嫌になった。そこでブロイアーはアンナ・Oの治療をやめることにした。その当時想像妊娠にあったアンナは最後の治療の日にひどく興奮して強い陣痛に苦しんでいた。ブロイアーはそれに対処できなかった。翌朝妻を伴ってベェニスに旅立った。その旅先で妻は懐妊しやがて娘を生んだ。などと書かれていて、これが後年に覆されるまでは、まことしやかな事実となって広まっていたのである。

 実は私などはつい最近までこれが事実だったと思い込んでいた。けれども事実は違っていて、ブロイアーの妻が出産したのはアンナ・Oとの治療が終結する何か月か前のことだし、想像妊娠にしても、ブロイアーがフロイトにその通りに言ったのかも定かではない。アーネスト・ジョーンズはフロイトのいうことをそのままにか、それ以上に膨らまして書いたのである。また、例えばカール・G・ユングさえも、ブロイアーがフロイトをアンナ・Oとの治療に立ち会わせてその転移性のヒステリー症状をフロイトが見たなどと事実に反することを書いていたりしている。

 実際のところ、ブロイアー自身はフロイトにアンナ・Oに恋愛感情を持たれたことを、ほのめかしたのは事実のようである。それ以上にどこまでフロイトに話したのかなどはよくわってないのだ。しかしアンナ・Oの症状にブロイアーが対処しきれなかった背景には、フロイトがそこに目をつけその後に理論づけた、心理療法において治療者と被治療者の間に立ち起こる「転移・逆転移」の問題が大きくあったのは確実である。

 ヒステリー研究の”訳注”によると、1996年に未公表だったフロイトの手紙が公表されたがその中の、フロイトが婚約者に宛てた手紙に「ブロイアー夫人マティルデが、夫が若い娘の治療に夢中になって毎日のように往診に出かけるので耐えがたくなり、病気になってしまった」と書いている。更に後年、フロイトは女性精神分析家マリー・ボナパルト(1882~1962)にブロイアー夫人は嫉妬のあまり自殺未遂もしていたと語ったこともある。

 また1932年ごろにフロイトはアンナ・Oのことを「彼女は70歳を越えても未婚のままで、ブロイアーが言ったように誰とも性関係を持ったことがない。性的機能全体を断念することによって彼女は健康でいることができたのです。…」などとも言っている。 このことを『フロイトとアンナ・O 最初の精神分析は失敗したのか』の著者であるリチャード・A・スクーズは「アンナの病は自然の経過をたどり、症状は解消されたのだが、欠陥は存在して、彼女は性を完全に断念せねばならなくなった。なぜなら彼女の心理の中で、この側面はブロイアーがその存在をつねに否定していたために、十分に探索されることも、直面されることもなかったからであった」と解釈している。

 ベルタ・パッペンハイム(1859-1936)は1882年に6月にブロイアーとの治療関係を終えてから後、ビンスワンガーの父のサナトリウムに入所するなどした。その後三度ほど入退院を繰り返しながらも健康を取り戻し、1888年29歳頃より以降社会的な活動を始め、数々の重要な仕事を成し遂げた。約50年にわたりユダヤ女性の地位向上、人身売買の廃止運動をすすめ、ヨーロッパ各地のユダヤ人女性の現状を視察、孤児院の院長を長く勤め、 保護施設の設立、メアリ・ウルストンクラフトの古典的名著『女性の権利擁護』をドイツ語に翻訳し、自ら『女性の権利』という戯曲も出版するなど多彩で精力的な活動を終生つづけて、ドイツのフェミニズムとソシャルワークのパイオニアと見なされている。

 伊藤良子先生はその著書「心理療法論」でさまざまな転移・逆転移状況について検討している。その中で、アンナ・Oについて「彼女が〈私〉の人生を生きるという選択はなかったのであろうか」と述べ、後年、公的には社会運動家としては大いに活躍したアンナ・Oことベルタ・パッペンハイムが、等身大の女性としてどう生きたかについて疑問符を投げかけている。

 また、伊藤先生はその骨太の著書「心理治療と転移」の中では「当時のブロイアーが、ここに起こった現象を正しく把握できず、見通しが全くないがゆえに絶望したとしても、それを責めることはできないだろう。そして、今日のわれわれは、アンナとブロイアーの残したものを正しく受け継がねばならない」とも述べている。伊藤先生の言う、今日のわれわれとは、心理臨床に従事するすべての人の事であるが、アンナとブロイアーの催眠療法を直に受け継ぐ流れにある現代の催眠療法家はこの点をさらに重く受け止めねばならない。もしそれがなければそこに展開される催眠療法は常にアンナとブロイアーの行った治療レベルに止まりつづけてしまうのである。
 

 …続く…

★参考ページ:『催眠を見抜く』『催眠療法の長所について』『催眠セミナー