心の構造と催眠の関係

こころ丸ごと全体について

 一般に催眠を説明する時にフロイトがとなえた無意識を持ち出して「意識は氷山の上に見えている部分であって、海の中にある何倍も大きな部分に相当するのが無意識である。そしてその無意識(潜在意識)には大きな潜在可能性が眠っていて、それを引き出すように働きかける」などという。

 これをより詳しく考察するために、少し催眠から離れてしまうが、心の構造に関する考え方の中からカール・ロジャーズのパーソナリティー理論禅仏教の考え方を参考にして、まず人の心の構造がいったいどうなっているか、どのように働いているかを見極めてみる。

 まずはじめにカウンセリングを学んだことのある人ならなじみのあるロジャーズのパーソナリティー理論を中心にして、他の心理学的な考え方も参考にしながら人の心の構造の全体像を検討してみる。

 ロジャーズのパーソナリティー理論では、生命体としての人間丸ごとを有機体として、その知覚の一部が次第に自己として分化されて意識的自己(自己構造・自己概念、一般的には自我)となるとしている。それは地図と実際の地形に例えられる関係である。

 この考えは大ざっぱには、フロイトのいう無意識がロジャーズの有機体で意識が自己概念と重なる。・・・本筋とは違う話だが、意識と無意識というように分けてしまうと分かりやすくはあるが、これだと「癖」などのように、過去には意識的だったものが今では無意識的になっている部分を説明しにくい。その点、ロジャーズのパーソナリティー理論の自己概念と有機体の方が癖の部分を組み込みやすいのである。また神田橋條治先生はフロイトの無意識やロジャーズの有機体に当たる部分を名著「精神療法面接のコツ」の中で「いのちのわがまま性」と表現している・・・

 パーソナリティー理論の考えでは有機体自体に身体的にも心理的にも、よりよく成長していこうとするような働き「実現傾向」があるとして、フロイトの無意識論よりずっと楽観的、肯定的に見ている。これは日本語訳の上での印象だが、「無意識」というと目的も何も持たないような感じがするし「有機体」というと何か人智を越えた働きも備わっているようで私としてはこちらが好ましい気がする。

 ところでフロイトが無意識の層を生まれてから後の時代までに規定したかったのに対して、その弟分であったユングは無意識層には古代までのものや、超能力的な要素まで含まれていると主張して、フロイトと袂を別つに至った。そのユングの心理学では無意識のところに自我意識を超えた実現傾向の働くところがあるとしてより心理的な感じで「セルフ」と名付けている。

 ロジャーズの「有機体」ユングの「セルフ」は禅仏教では自我を超えた名で「真実の自己」とか「仏」などと言ったりするところと重なる。 禅仏教のとらえ方は一番ラディカルで「自我という壁を無くしてみれば、この宇宙の全てが自分であり、それをはじめに知ったのがお釈迦様である」という。

 ロジャーズの有機体やユングのセルフ、禅仏教の「自己・仏」の三者はともに自我を超えた所に大きな肯定的な働きを認めようとしている。これはキリスト教の「神」や、イスラム教の「アラー」などの宗教思想とも重なる概念ではある。しかしこの三者が他と大きく違っている点はそれを外に見ずに自分の内に見ていこうとするところである。

 禅仏教はロジャーズやユングの理論のような自我(自己概念)を立てない。我を無くしていくことで隔てがなくなり内も外もなくなるというのである。だから悟りの世界は他と対立が起こらないという。 参考HP『井上貫道老師の庵

自我とは 自己概念、自己(自我)の構造

 ロジャーズのパーソナリティー理論では、生まれてから発達していく自我(自己の構造・自己概念)は自分自身の直接(有機体によって)に経験されるものとともに、他から教え込まれたり自分で受け取ったものが、混在して成り立っているとしている。

 これは先に述べた実際の地形と地図の例えで言えば、自分自身で測量して書き込まれた部分と、実際に自分では測量しないで、他の地図を見たり人づてに聞いたりして書き込まれた部分が混在している状態といえる。

 自己概念(自我・自己の構造)は様々な価値観を伴ってある種の枠組み、思い込みとなり、性格としても定着していく。 例えば体感としての快、不快や道徳心としての良い悪いをはじめとして、カウンセリングなどで問題となってくる、いわゆる「よい子であらねばとして育った」などというようなものになっていく。

 神田橋條治氏は「精神療法面接のコツ」の中でロジャーズの有機体にあたる部分は「いのちのわがまま性」と名付けていることを先に紹介したが、自己概念(自我)にあたるところは「ことば文化を学習している生体部分」としている。そして自己概念(自我)にあたるところの、特に他から取り入れたところを「・・・べき」という言葉をくっつけてみると識別できるという。

 良くいわれる「どうしたいかが大切」の「・・・たい」と言う言葉は生体のわがまま性(有機体)を映し出す。この「・・・べき」の働きが多い人ほど無理を強いられている人となり不適応が多くなっていく。

 次節からは、この心丸ごと全体を分けた考え方「自分を自分である」と意識しいる自我、自己概念にあたる部分と無意識、有機体、いのちのわがまま性にあたる部分とをふまえながら、催眠や催眠療法との関係を考えてみよう。

心全体(有機体・無意識)と自己概念(自我意識)と催眠の関係

 ロジャーズは「ある経験が自分(自我)の一部としてみなされるかみなされないかは、それが、自分の統制下にあるものとして知覚されるかされないかということに、かなりの程度依存している」といっている。

 ちょっとわかりにくいが、私たちの意識は人それぞれこの自我「自己概念・自己の構造」のどこかに一体化してそこを自分と思い込み、その枠組みの視点を持ち、そこから自分や他を見る。そしてその枠組みの基準から見た範囲で受け入れられるものや統制下にあると知覚されるものは自分の一部であると感じられるし、そうでないものは例えどんなに良いものでも自分の一部とはならないのである。

 この自己統制が長く働く間に、それは人の性格と型作られていく。次第にその働きが無意識的な癖のようなものとなる。時にそれが行きすぎてしまうと、前にも述べたが、例えばカウンセリング場面でよく話題となる、いわゆる「良い子で」やってきた、というような問題になっていく。そしてそこに一体化している私たちはこの価値観を伴った枠組みが揺さぶられたり崩壊するときには、自分がなくなりそうな感じや、死の恐怖をも感じるのである。

 これは、親のしつけや学校教育を素直に受け入れ、それを真面目に頑張った人ほど不適応に至るといえる何ともせつない話しでもある。

 ロジャーズはまた「人の行動はこの自己概念の枠と首尾一貫しているような形式となって規制されている」という。ここで人は自分の自己概念と一致しないことが起こった場合になんとか自己を保とうとするために様々な理由づけを働かせて納めていこうとするのである。この辺りをフロイトの心理学では、例えば自分の中の認めたくない部分を他人に見るようにすることは『投影である』というように心の防衛機制としていくつかに概念化している。

 けれども、時にその防衛規制で理由づけできないような、その範囲を超えているといえる有機体(無意識)自体の行動がある。

 いわゆる「キレる」などというような衝動的な行動や、大きな危険が迫ったときに思わずながらも、適切に危険を避ける行動を有機体自体がとる場合である。「自分が何をしていたのかわからなかった。思わず動いていた」というように自我意識はそれを統制していた感じを持ってない。そして催眠状態で起こってくる「他動感」もこのような行動の一つである。

 催眠は被催眠者に、通常の自我意識による統制感とか意識的思考や意識的動作をスルーするような働きかける。それを暗示という。通常人は「考えないでおこう」と思っても、もうすでに考えているわけだが催眠誘導で用いられる暗示はそのような自我意識の思考の働きをもなるべくさせないような工夫がなされている。そして常に自我意識より先んじて働いている有機体のイメージ活動そのものに、通常自我とは別にしつらえた催眠という枠組みの中から直接に働きかけ、その暗示リードにより有機体のイメージ活動を活性化させ身体に活動してもらうよう試みるのである。

 その催眠誘導過程においては通常の自我意識は必然的に自我放棄(移譲)状態が進んでいき「忘我」といえるような極端な状態もしばしば起こる。けれども催眠トランス状態(自我放棄状態)といっても特殊な場合を除いて通常のレベルでは日常での出来事と同様で、いくら我を忘れるといっても危険を察知すれば有機体自体が身を守る行動をとるし、すぐに我は帰ってくる。

 このような催眠トランス状態のその程度は、例えて言えば、お酒を飲んでほろ酔い加減から酩酊状態までの範囲と同じである。

 特殊な例だが、あまりにも弱い自我やまた解離(二重人格)的になりやすいなどの極端な自我構造を持つタイプの人がいる。催眠誘導後に自我意識が全く働かなくなってしまって催眠から覚醒した後でも、催眠誘導者に自分を明け渡したかのように、依存が強く残る人もいる。また催眠誘導後に統制感がまるで無くなり、催眠誘導者の暗示にも反応しなくなり統合失調症の発病の急性期のように、まとまりのない勝手なイメージ活動がしばらく続く場合などがある。

 統合失調症的な要素を潜在的に持っている人には、どんな心理的アプローチでも不用意に用いることは非常に危険である。特に催眠は他の心理技法よりも自我放棄を急激に促進するので、その危険性はより大きい。催眠療法でも心理療法全般においても強引な手法は論外である。侵襲的なアプローチは、どのようなタイプのクライアントに対しても慎重にしなければならない。

 催眠療法も含めて、心理療法場面では治療者との信頼関係に支えられてクライアントの自己治癒力が高まり治療過程が進んでいく。けれども時に、カリスマ的で外見にはとても力量の有りそうに見える権力志向的な治療者が、助けを求める弱い立場のクライアントとの関わると、最初は良いのだが次第にさまざまな問題が起こってくる。クライアントが、藁をもすがりたいくらいにとても苦しい場合や、強い支えを必要としている場合には、今度は逆にクライアント側からカリスマ的な治療者に強い期待を寄せるので、ここでも当然同じ問題が起こってくる。

 催眠中は「我を誘導者に自分を預ける」形をとるので、その誘導者の言いなりになっているかのような姿が権力欲を刺激する。そして権力志向的な欲求を強く持つ人が催眠治療者となると、その権力欲のためにクライアントを利用する危険性がでてくる。

 この問題点は、催眠や心理療法界に限ったものでない。例えば「我を無くする」ことの最たるものである禅の考えは戦時中に軍隊や学校などで、死も厭わないでお国のために奉仕するようにとの教育に用いられた。また軍国、帝国主義に加担するような発言をした指導的立場の禅者もいる。禅の「我をなくし生き死ににかかわらず縁に従いきってあるがままに(仏法に)生きる」というあり方は最高のものであるが、その無我の境地は指導的立場の者に悪利用される危険性が伴っている。

 洗脳やマインドコントロールなど、カルト的な宗教や外見だけの危ないカリスマ的な指導者に個人の自我の識別力や批判力が乗っ取られ、指導者側に都合の良い枠組みを植え付けられるような場合がある。それはやはり「我を無くする」というところで起こってくる危険性である。

催眠状態の他動感について

 この節では、日本の催眠界を常にリードして来られた成瀬悟策先生の『催眠の科学 講談社 1997』の文中から引用させてもらって、私の考えたところとすりあわせながら、催眠とはどのようなものかについて検討してみる。

 成瀬悟策先生は、ご自分の催眠に対する考えを『催眠の科学』の中で「課題努力説」として説明している。課題努力説とは著書『催眠の科学』の中の努力の意識性という節で成瀬先生が述べているように「そうしようと意図したものが彼にとっては課題であり、その意図どおりが実現したのは課題努力が達成されたことを意味する。すなわち何らかの心の動きがあったなら、それは彼の努力によるものということになる」といっている。

 成瀬先生はこのような考えに基づいて、フロイトの意識対無意識とか、先に例えたロジャーズの自己概念と有機体などのように、心の活動をハッキリとは区別していない。その努力のあり方を「強い意志によるものばかりでなく、ちょっとした動きやものを見る、軽く考えたり、思い出したり、ふと何かをしようと思っただけでも、、」というような形で半無意識的なあたりも含めて論を進めている。

 この方が事実に近いと言えるかもしれないが、それを読んで(聞いて)いる側は区別が曖昧なことから、成瀬先生の言う「努力」をどうしても自我の意識的な働きと誤解して受けとめかねない。

 ところで催眠の場合を成瀬先生は「暗示の場合、自分がやっているのに、その意識がない。ではまったく意識がないかといえばそんなことはない。勝手に動いたとか、向こうから見えて来たなどと意識するようなタイプの努力をしているのである。これは普段のタイプからはかけ離れたものだから、普通はそんな努力があることも知らないし、しようともしない。普段のタイプの努力だけを意識活動と考えてきた人たちは、・・・略・・・」と言うように説明している。

 ここで成瀬先生は、私が「催眠で体験するような他動感(からだが自分の意志とは関係なく勝手に動く感覚)が、実は普通の心身の動きである。意識の方が勘違いしていて、手は自分で意識して動かすものと、かってに思いこんでいるだけである。と逆説っぽく主張する部分を「普段のタイプの努力だけを意識活動と考えて来た人たちは、・・・」と、私とは違った表現で同じところのことを言っている。これは成瀬先生の方が優しくマイルドに言っていて、私はちょっとラディカルに言っているという違いでもある。

 成瀬先生は『催眠と科学』の中で先に取りあげた文章に続けて「それと違うタイプの意識による努力を意識外とか、無意識、準意識などと呼び、特異・異常なものとして扱ってきた。フロイトの無意識説はそのうちさらに極めて特殊な場合を想定したものである。それらの無意識感からすれば、暗示は、日頃の生活では味わえない無意識的努力を引き出し活性化するための課題ということになる。あるいは普段の意識性でしか努力が出来ない人に、それとは異なるタイプの努力の仕方があって、どうすればそんな努力ができるようになれるのかを経験するのには他に類のない方法ということだろう」と述べている。

 これは要するに、自分を自分で意識的にコントロールしようとする姿勢をやめて、催眠の場合には催眠誘導者やその暗示言葉に自分を委ねるということである。ところでここで成瀬先生のように「普段の意識性でしか努力できない人に、それとは異なるタイプの努力の仕方があって」と言ってしまうと、それを読んで(聞いて)いる人は、普段には意識が努力で行為をコントロールするものである、との思い込みを強化してしまう。そうすると私の言いたい「人は通常それほどには努力して行為をしているわけではなくて催眠で体験するような他動性の心身の動きがが実は普通の心身の動きである。何かをなそうと行為するときには意識が努力して全てコントロールするものであると勝手に思いこんでしまっている」というところの、その思い込みを見抜くことが出来なくなってしまう。

 また成瀬先生は無意識的「努力」とか異なるタイプの「努力」という表現をよく使っているがこの「努力」という言葉が今ひとつ適切でない感じがする。先の節にもそれだと自我意識の働きと誤解してしまいそうになると述べたが、私たちの意識(自我意識)にしてみたらこの他動感は努力という言葉で表すような感覚ではなくて、努力と反対の遊び感覚に近い楽な感じのものなのである。もちろん「人間は生きてるだけで大変」ともいうし有機体(無意識)は目に見えずともすごい努力をしているかもしれない。ただ私たちの自我意識にしてみれば、それは他人様の努力と同一でもあるので、そこからすると楽な感じがして当然である。これはディスコダンスのように型にはまらず音楽にただ身を任せて踊ることが開放的でとても楽しいことであることからも了解できる。

 催眠の一番の魅力はこの他動感から引き起こされる自己解放である。信頼できる催眠誘導者に安心して心身を任せリードしてもらうことで、自分のみでは成し得なかった自己解放が容易となり楽になるのである。

催眠療法とサイコセラピー1

 カウンセリングの創始者であるカール・ロジャーズは『パーソナリティー理論 岩崎学術出版社 ロジャーズ全集8』のなかで、サイコセラピーの成功過程においては自己のコントロール感が、より無理のない自然な方向に変化していくことを車の運転に例えている。

 「凍った舗道の上を自動車運転していて、その道路のカーブにそって曲がろうとハンドルを切る時、自動車(有機体)はすぐには曲がれず真っ直ぐに走ろうとする。(この状態は、神経症的症状に悩む人の、身体がゆうことを聞いてくれない、とか身体が勝手にそうなってしまうという状態である)それを、前進しようとする自動車(有機体)の惰性を否認しないで、カーブを曲がろうとハンドルを切る(意識的努力)よりも、滑っている車輪をそのまま滑らせて、最後には再び自分の意のままになるようにして、それからゆっくりと左へ曲がることができる」というようなコントロールの仕方に変わっていくといっている。

 ロジャーズはそうなるにあたって、自分の経験をことごとく気づいていてそれを受け入れられるようになることから、その様な無理のない自己統制に変わっていくと説明している。その自己への気づきや自己受容を増やし深めていくことがロジャーズのカウンセリングの目指すところである。

 ところでこれは意識が自分の身体の動きをコントロールしようとする姿勢から、見守るような姿勢へと変化することでもある。その様な態度は先の節にも述べたように、音楽に身を委ねて身体の自然な動きに任せて踊るというような開放的な感じになることでもある。大ざっぱにいえば「からだに任せてみる」やり方といえる。

 このホームページの「心と身体と催眠(意識の勘違い)意識的努力の限界」の所で取りあげた二人の事例はその「からだに任せてみる」というやり方を現しているが、演劇の勉強に通う青年の事例の方をここでも再度取りあげてその「からだに任せる」というあり方を考えてみよう。

 青年は、演技の勉強に通う中で舞台稽古をする時あがってしまってうまく演技が出来なくなる悩みで心理相談に来談した。初回の相談でいろいろ話し合ったたが、二度目の来談の時、もうあがりはなくなって、おまけに演技する役にうまく入り込むことが出来るようにもなっていた。

 彼は初回に来談した後に、テレビでフィギアスケートを観た。そして氷の上で演技している選手を周りの観客が応援しているありさまを目にした時「自分(意識)は自分の体を信じて応援する側に回れば良いのでは」と思った。それまでの彼は演技をする時、その演技の隅々まで完璧に意識でコントロールして演技を行おうとしていたのだった。そのフィギアスケートを観て気づきがあった後の演技練習では、演技する時、意識的努力はやめ、演技をからだに任せるような感じでやってみたらあがらずにできたばかりでなく、その役の感情まで感じながら演技できたという。

 偶然だが、心理療法の第一人者である神田橋條治氏が著書『「現場からの治療論」という物語』の中でフォーカシングについて述べる際に「からださん、語って」と頼むときは 、臨時にからだを主役にして、ファントム(意識)は聴衆になるのです」と先にあげた事例の青年がフィギアスケートのテレビ観戦から「自分は聴衆となって身体(演技する自分)を見守り応援しよう」と思ったところと全く同様の態度をフォーカシング(心理治療技法)のコツとして勧めている。

 ところで、相談室に来談されるクライアントで催眠療法に期待を寄せる方は、問題に圧倒されるばかりでどうして良いかわからなくて切羽詰まっている。とにかく早くパッと良くなりたい。催眠暗示という強力そうなものによって弱い自分(自我)を強くしたり、圧倒してくる問題を消してもらいたい、と思っている。そこに急に「身体に任せましょう、見守りましょう」と言われても、思うようにならない身体や症状に随分苦しめられてきたのであるから、おいそれとその気にはなれないのである。役者志望の青年のように一度で価値観の転換を図れる状態にはない。このところからの方向転換だけでも至難の技である。

 私はそんなクライアントに方向転換してもらいたいときには「身体や無意識の機嫌を取りながらやっていきましょう」とか「友達関係と同じに相手(身体)と仲良くして良い感じになっていくようなやり方を試してみましょう」とか言ったりしている。この様な関わり方はシッカリとした支えを必要としているクライアントには時に頼りなく見えたりもする。でも、この方向付けがクライアントに定着すれば、とりあえず心理療法の第一関門突破といえるであろう。

催眠療法とサイコセラピー2 自我意識の態度

 適切な暗示やイメージ操作を用いることができるようになるために(どこで、なんのために、どのように用いているのかをわかっておくために)意識の態度のあり方を中心に図式であらわしてみた。

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 便宜上、意識の相反するような働きをA、Bとして分けて表している。

 図の中の意識A、Bの一番根本の態度の違いは対象(ここでは自分を対象としている)をA操作しようとする動き。Bをわかろう〈見たり聞いたり感じたりしよう〉とする動きとする。

 Aの意識のコントロールしようとする働きの最極端には、強迫性障害のように(不安を乗り越えようとして・完璧にやろうとして)極度に意識性を高めていく状態がある。Bの意識の働きは良い悪いや快、不快を判断する以前の観察だけの意識の働きとする。

 この図を参考にしながら催眠療法の用い方を説明してみよう。

 「催眠状態に入る」というがそれは催眠誘導者に我を委ねて行く過程である。より細かく正確に言うと「我を忘れたり我を委ねたために、催眠誘導者に直接的に刺激され、リードされた自分の無意識的なイメージ活動のままになること」である。この図からいえば、A、B含めた自我意識全体をできるだけ働かないようにさせて、潜在意識に直接アプローチする動きである。その最極端な状態は日常でいえば酩酊状態や夢を見ている状態とほぼ同じくらいに自我意識がなくなっている。

 前節「催眠療法とサイコセラピー1」の後半に「相談室に来談されるクライアントで催眠療法に期待を寄せる方は、問題に圧倒されるばかりでどうして良いかわからなくて切羽詰まっている。とにかく早くパッと良くなりたい。催眠暗示という強力そうなものによって弱い自分(自我)を強くしたり、圧倒してくる問題を消してもらいたいと思っている」と述べた。この場合にクライアントの期待通りの治療を行うとしたら、Aの意識のあり方である身体や無意識を支配しようとするのと同一方向とからの催眠暗示やイメージトレーニングとなる。これは治療者や催眠暗示がクライアント自身のAの意識になり変わって身体や無意識をコントロールしようとする技法である。

 クライアントに強い支えが必要な場合にはこのAの意識の態度と同じあり方から無意識に向かうような暗示療法が役立つ。それは例えばカリスマ的な人物や頼りがいのある人の言葉によって支えられたりする場合と同じである。

 私がクライアントに対する場合「身体や無意識の機嫌を取りながらやっていきましょう」とか「友達関係と同じに相手(身体)と仲良くして良い感じになっていくようなやり方を試してみましょう」とか言ったりして、それほど支配的でないように、無意識や身体と仲良くしながら良い方向に向かうための催眠療法を模索したりする。と言ったが、この手法を図で示すと、クライアントにBの意識の立ち位置に変わってもらってから催眠療法に取り組んでいくやり方となる。これはフォーカシングをクライアントに教えるのと同じことである。

 このような方向付けによってクライアント、催眠療法家ともにBの意識の「見守る」態度を強くすることで、内界と上手に繋がることができる。有機体の自律的なイメージ活動を引き出しやすくもなる。生命体(有機体)の持つ自己治癒力の活動が最大限発揮できるようになるのである。このように、クライアント自身が自分の内界に適切な向き合い方ができるようになれば心理療法はもう成功したも同然である。

★参考文献&HP:『精神療法面接のコツ』『成瀬悟策 催眠の科学 講談社 1997』『井上貫道老師の庵』『寄り添い見守るフォーカシング