リラクゼーションと自然治癒力

自然治癒力の促進

 人が治癒されるのは当人の持っている自然治癒力の働きによるのは万人の知るところである。その心身の自然治癒力を活性化するためには、ともかくできるだけ深くリラクゼーションすることが必須である。催眠療法はそのリラクゼーション技法の最たるものであるが、その他にも深いリラクゼーションに導く技法はいろいろある。また特別な心理技法を用いるのでなくとも自然に深いリラクゼーションに入るきっかけも多々ある。

 しかしリラクゼーションが、どのように働いて心身の自然治癒力を引き起こすのか。そしてそれによって心身はどのように治癒し回復していくのかなどの点は、まだまだ詳しく解明はされていない。そこでここでは催眠にこだわらないで「リラックス」と「自然治癒力」に絞ってそれがいったいどうなっているのか、その心身相関の仕組みに迫ってみる。以下にリラックスとかリラクゼーションという言葉を使う時は、単に緩める、弛緩するというような身体的意味あいだけでなく、やすらぎ感や安心感などから、休息、静養なども含む心理的なニュアンスまで含めて使う場合もある。

心身相関の事例

 私の知り合いの主婦は、体を動かすのが非常におっくうで家事をするのもしんどく、外出も非常に辛い状態になった。彼女は知人の紹介で気功法を取り入れたマッサージ所を訪ね、治療を受けた。施術してもらっている間は体が非常に痛かったが、でも全身がほぐれた感じになった。その治療が終わった帰り道の電車で非常に眠くなり、家に帰り着いたらすぐ横になって、そのまま次の日までぐっすりと寝てしまった。彼女はマッサージ治療を受けた帰りの道すがら「体はこんなにも疲れていたんだ」と気づき、そんなでき事を私に話した時には「思い返すと三十代は走り続けて来たような気がする」と語った。

 ある中年男性は、夜中に突然強い不安とともに冷や汗がいっぱい出て眠れなくなり、入院を余儀なくされた。退院してから仕事に復帰しても残業など、長時間の仕事が以前のように出来なくなってしまっていた。仕事も休みがちとなり長続きせず、困り果てて心理相談室に来談した。彼は真面目で人付き合いが少なく、無口な発散出来ない性格であった。身体もガチガチに固まり首、肩、背中とひどいコリとなっていた。

 技術者の資格を持っていた彼は、不安発作がでる直前までは、寝る間も惜しむように働いていた。他人との会話には気楽に加われない性格で人間関係で神経を使っていた。そんな日常の緊張や我慢が溜まりに溜まってしまい、ついに自律神経が悲鳴をあげて、夜中の冷や汗や不眠状態となってしまったと言えるだろう。しかしそうなってしまうまで、本人はそれほどにストレスが溜まっているとか体が固くコッてしまっているとは気づかなかったと言う。

 ところで彼の話だと彼の父親は毎年一度くらい、しばらくの間、非常にお喋りになるという。だれ彼かまわず、また独り言でも喋り続けたりする時期があったそうだ。似た性格を受け継いだところがあったと思われる息子の方は、でもそんな父親を反面教師をにしたのだろう。父親のように喋り続けることはしないで逆に我慢し続けて、最後は入院や心理相談室に来ることになってしまったのである。うつの始まりにはこの、自分の身体の変化兆候に気づけない状態が長く続いていて急に身体にどんと症状が発生するパターンが多い。

 また別の四十才台の男性Aさんは、自己啓発のための自律訓練法に興味を持ち心理相談室に来談してトレーニングを重ねていた。そんなある日、自宅で自律訓練法を行っていると、以前から時々見る事のあった夢の嫌な感じと同じような感覚になった。そこで「この感じは夢と同じだな」としばらく注意を向けていたら突然、高校時代の辛かった思い出が蘇って来たのである。

 その自律訓練中の不思議な体験の話から続いて、その高校生時代の辛かった体験も詳しく話してくれた。そして「思い出してみるとその時は感じませんでしたが、自分で思ってた以上に辛かった所があったようです」と語り終えた。彼は「何だか肩が軽くなってスッキリしました」と言って肩をぐりぐり動かし気持ちよさげであった。

 この男性の話と全く同じように、夢をきっかけにして過去のことを思い出す体験を私もしたことがある。ちょっと恥ずかしい話しであるが。それは昔、ゲシュタルトセラピーのセミナーでドリームワークを学んでいるときだった。まず、グループセッションの中で自分の見た夢を元にドリームワークを行った。でもどうもうまくいかずにその時は中途半端に終わってしまった。そこでアパートに帰って自分一人でそれを試みたのである。

 夢を思い出して、その夢の中に入り込む感じで、いろいろ浮かんでくるまま思いつくままにしゃべり続けてみた。だんだん調子に乗ってきた辺りで自分でもビックリすることが起こった。突然両肩から両腕にかけて電気が通るようなズーンとした感じになったのである。その後は自分がまるで子供時代に戻ったようであった。母親の乳房を思い出し「誰にも渡さないぞ!」「両方とも自分だけで満足するまで吸うんだ!」などと独り言をいって、そばにあったクッションを抱きかかえながら、まさに今、母親の乳房を吸っているかのように口先をとがらせてチューチューと吸いまくったのである。

 幼少期を思い返してみると、子供心に「もう大きくなったのだから母親のオッパイはあきらめなくてはいけないんだ。そんなことをするのはみっともないんだ。立派な子にならないと」と考えた時期があった。そんな欲求はいけないことだ、抑えなければと思った。そしてそんな強い欲求を、私は肩から腕にかけて力を入れて緊張することで我慢し抑圧していたようである。

 ここに紹介した事例には、心と体の相関関係があらわれている。個人はその人なりに身につけたやり方、生き方で日常生活を生き抜いている。そしてある生き方を選べばその反対の生き方はできなくなる。そこでどうしても消化、発散出来ないところのストレスや欲求、情動や生きられなかった反面などが、いつの間にか身体や潜在意識に蓄積されてくるのである。それが限界を超えた時には、一気に症状として表面化して現れいでるのである。

やすらげない私たち

 現代よりも昔の方が人が生きていく上で様々な危険がずっと多かったのは確かである。それを考えれば現代人よりも心がやすらいでいたとは思えない。現代では科学の発達で暮らしもよくなり医療も進み寿命も長くなった。いろんな面で昔より今の方がずっと安全に生きていけるのは確かだ。それなのに不思議なことに、なんだか本当の意味でやすらげなくなって来ているように思える。一体どういうことなのか。この原因は近代化による環境やコミュニティの変化などの側面から考えて行くこともできるかもしれないが、ここではまず個人の心身を中心にすえて考えてみる。

 激しいスポーツや肉体労働などをした後には、休む事は当然であると思える。疲れた感じは実感しやすいし、何よりも肉体を激しく動かし続けられなくなる。それに比べ、心の疲れに関しては身体の疲れほどには休息を大切に考えていない人が多い。先の「心身相関の事例」で紹介した主婦のように、治療を受けて心身がリラックスして初めて、疲れが表面化してくる場合も多いのである。ところでもし大怪我をしたとして本人がひどく苦しんでいたり、出血がひどければそれは誰にも一目瞭然である。「大変だ、早く治療しなければ、安静にしていなければ」と思える。

 でも心の方は身体の怪我などのように眼には見えない。それで心がひどく傷ついたり疲れていたとしても、それがどの程度なのか、どんな状態なのかなどが他人に伝わりにくい。おまけに当人さえ自分の大変な状態がよく分からずにいる。それに、心にとって重すぎて受けとめかねるようなトラウマなどは癒されないままに心身の深層に押し込められてしまう。そんなこんなで心の方はキチンとした治療や静養などの体勢がとれない場合が多いのである。

 このような状態が続く中で、ついには心身の疲れが限界を超えて一気に症状として表面化したものが「うつ状態」である。うつ病には働き者の日本人が培って来た価値観(精神論)が大きく影響している。働くこと、頑張ることが大切なのは言うまでもない。けれども、休むことと頑張る(働く)ことを比較すると、やはり頑張ることの方が良しとされている。「根性でやり抜けば何とかなる」とかの昔ながらの精神論が今でもある。「休むことは怠けていること」として後回しになるのだ。それが強くなって「休む事や快楽に身をまかせる事は悪である」「理性や意志の力でやり抜けば何でもできる」というような教条や理想となってもいるのだ。理想とされるヒーローやヒロインは休む事が許されないのである。

自然治癒力

 『治療』に関する考え方で、そのすべてに通底しているのは、生命体の持つ自然治癒力が強調されていることである。確かに、例えば薬を用いるにしても薬の作用はあくまで補助にすぎない。主役は元々の身体が持っている様々な代謝作用の働きである。それが大いに活躍するから回復していける。心理臨床では特にこの「自然治癒力」が頼りである。

 ユング派の心理臨床家であった河合隼雄氏は自分の心理臨床面接に関して「何もしないことに全力をあげる」と言い切っている。河合氏は、へたにあれこれ手を出すことは治癒に至るところの自然の流れを邪魔することになりかねないと言う。その河合氏の「何もしない」という態度の背景には、まずクライエント個人への並々ならぬ深い信頼がある。それに加えて生命体にある自然治癒力や、それを超えての運命や偶然の働きなどのような宇宙天体(自然)の動きにまで至る深い信頼もあるのだ。驚くまでの広く深い思想とその実践である。

 残念ながら器が小さい私の場合は、生々しく苦しみながら生きているクライエントの話を聞くと、タジタジとして受けとめかねる場合も多い。そうそう信頼を深くしてはいられなくなる。落ち着かなくなって何かせずにはいられなくなる。そこで私の場合は深くリラックスすることを目標にして催眠療法などの治療技法を使ったりするのである。

 この「自然治癒力」がよりよく働くには深いリラクゼーションが前提条件となると述べてきたが、それを心理面から言いなおすと「やすらぎ・安心感」ということになる。精神科医神田橋條治氏は名著「精神療法面接のコツ」の中でご自分の体験から、自分を育ててくれたのはその八割が「抱えられ体験」であると言う。「治癒課程の本流は、抱え環境の中で進行する」と述べてもいる。「抱え環境」とは「安住の環境」ということであり心身が「やすらげる」場所である。

身体面から見た緊張とリラクゼーション

 ここでは身体的な側面を中心に緊張とリラクゼーションについて検討してみる。もちろん心と身体は心身相関関係にあるので、心理的なものも絡んではくる。

 日本人に多いとされている悩みの一つに対人恐怖症(社会不安障害)がある。そんな神経症レベルでなくても自己紹介やスピーチやスポーツの試合などのように人前で何かやるさいにアガってしまうので、そのような場を苦手としている人は多い。

 「アガリ」とは極度の緊張である。その状態を身体的な面から見てみると。動悸が強くなる、顔がこわばる、顔が赤くなる。声がスムーズに出ない、手足が震えて来る。など身体が勝手におかしくなって自分の意志でコントロールできなくなる。主に上半身の首、肩回りを中心に強い緊張がきているので、それに付随するところに症状がでるのである。まさにアガリという言葉どおりに、身体的に重心が上にあがっていて、足が地につかない感じとなってしまっている。

 人前であがるほどの強い緊張状態ではないが、日常で外に出ている間中、時には家にいても、常に緊張している場合がある。日常生活を送っていれば誰でもが大なり小なりの緊張はある。例えば今、あなたの肩に注意を向け、今の状態よりもっと脱力しようとすれば、緊張が固着している人はリラックスし難いかもしれないが、そうでなければ必ずある程度の脱力が行える。その脱力できた分はそれまで緊張していたのである。

 この緊張状態にはずいぶんと個人差がある。それは長年のうちに条件づけられていて、それが当たり前の状態となり、自分自身で気づかなくなっている場合も多い。それが身体的な症状として現れてくることもある。偏頭痛や、立ちくらみ、自律神経失調と言われるような症状はそのほとんどが身体が緊張してコリを生じて、身体内の流通が悪くなっているところからくるものである。猫背といわれる姿勢の人の中には、あがり状態までとはいかなくとも上半身の緊張が長年続いてそうなってしまった人がいる。対人関係で長年緊張を強いられてきたのである。

 緊張が固着している人はリラックスが難しいと言ったが、長い間に本人が気づいていない部分にそれは蓄積される。そしてそれが普通の状態となってしまったがために、身体の違和感に気づく感性などが麻痺してしまっている。実はこの状態が一番危険である。最悪の自体になって症状が表面化するまでわからないからである。身体が固まるほどに、新陳代謝などの自然治癒力は鈍ってくる。

 マッサージやヨーガ、リラックス法をやったら逆に肩が凝るようになったという人がいる。それは肩が凝ることに気づくようになったと言うことである。リラックスした状態を経験してはじめて自分が緊張してくる事が良く分かるようになる。 精神的ストレスは微妙に身体にも影響する。自律神経失調などから、心身症と言われる胃、十二指腸潰瘍やアレルギー反応、それにガンまでもストレスが影響すると言われている。

自律神経失調症なども含まれるが、不定愁訴という病名をつけにくい微細な症状がある。本人にとっては自覚症状がちゃんとあり辛くもあるのに、診察してもらうとなんでもないと言われる。この範囲の事は精神的なものだからとか言われてしまい精神科に行って下さいとか、時にはまるで気のせいのようにかたずけられる場合もある。でもこのような場合にも、検査にでなくとも身体的にもやはり異常反応はちゃんと生じているのである。レントゲンには写らなくとも体が緊張して固まったり凝ったりムクんだりしている。

 そうなると「なぜリラクゼーションが大切なのか」の節で述べたように、血行や新陳代謝や神経系ホルモン系や東洋医学で言う経絡など、身体内の様々な流通が滞ってくる。病院で診察を受けてなんでもないと言われても、それは医療器具での検査に出なかっただけのことである。心気症的に心配のし過ぎはもちろん良くない。でも不定愁訴は「ちょっと変だから調整してね」とのメッセージやが身体からきているのだと受け止めることが大切である。そしてそれに耳を傾け、気持良いリラクゼーションやストレス発散を工夫することが健康の秘訣である。

 東洋医学などでは古来より身体の理想的な状態は頭寒足熱と言われきた。例えばマッサージを受けて身体が緩んだり、ヨーガのアーサナと言われるポーズを行ってリラクゼーションがうまくいった時などには必ず手や足が心地良く暖かくなっている。自律訓練法などのセルフコントロール暗示を行う事でも同様のことが起こる。これは身体がリラックスしたために血管も弛み血液の流れが体の隅々までいきとどくようになったからである。

 お腹、特に丹田があると言われている下腹部は人間の身体バランスの中心部であり理想的な身体バランスの重心となるべき所である。「腹の座った人だ」「肝っ玉が大きい」「太っ腹」などの言い回しや、逆の意味の「腰抜け」「腑抜け」などの下腹部まわりを例えた表現がある。立った姿勢の人間をイメージしてみれば、その人の重心が胴体の上方にあればあるほど不安定になるし、逆に重心が下に下がるほどに安定してくるのはすぐ分かる。ところが、先に説明したように「あがり」の状態は、首肩胸まわりに力が入っているために重心が上にきてしまい、それこそ「あがって」しまっている。

 猫背の腰を引いて肩をこわばらせ、背中を丸めたような姿勢は自分をかばうためのものといえる。でも背を丸めて内臓を圧迫している姿勢が長く続けばお腹周りは硬くなって呼吸もゆったりできなくなる。おまけに、お腹がこわばることで首筋から頭部の方まで引っ張られて偏頭痛にもなる。極度の緊張でなくても日頃緊張しがちの人の中には、腹式呼吸を行ってみて下さいと言われても、なかなか下腹部を思い通りに動かして腹式呼吸をすることができない人がいる。下腹部にほとんど力を込めることもできず腑抜け状態の人や、萎縮して凝り固まって柔軟性がなくお腹の伸縮がごくわずかしかできないような人もいる。

 ストレッチやマッサージなど、またはヨーガのアーサナような身体をほぐし緩めることは身体的な治療だけでなく心の治療にも大いに役立つ。身体は全てが繋がっているので、身体が緩めば緩むほどにその良い影響は全身に伝わる。そして脳内の流れもスムースになる。ヨーガの修行の中には心身のコントロールのための様々な呼吸方法がある。

 日本では武道や芸事の中などで腹式呼吸が重要視されてきた。腹式呼吸は安定した重心で立ち振る舞うために役立つだけではない。こわばったお腹を腹式呼吸でのびのびと開放させることで内臓器官の様々な流通がスムースになり新陳代謝がとても良くなるのである。呼吸法でお腹辺りを弛め、のびのびさせることは内臓に良いだけではなくて、全身に良い影響を与えることになる。呼吸は吐く息、吸う息という単純な作用で普段は無意識的に行われている。でも自分で意識的に行うこともできるおもしろいものである。いろいろ研究や工夫もされているが非常に奥が深い。でも基本的には何も特殊なものではない。もしその人自身が本当に深くリラックスして心身ともに伸び伸びしたならば、自然にゆったりとした腹式呼吸となっていくはずのものである。

心理面から見た緊張とリラクゼーション

 リラックスすることを身体レベルだけで考えるならそれはわかりやすい。筋肉がほぐれるようにマッサージやストレッチ、軽いスポーツなどをやれば肉体は弛むからである。けれども人は心のリラックス(安らぎ)が伴ってないと心底満足できない。この心の方のリラックス(安らぎ)は身体レベルのリラックスのように簡単にはいかない。心が眼に見えないものであることでその全てが難題となってしまうのだ。心理学や宗教があるのは心のリラックス(安らぎ)が簡単に得られないものだからであろう。

 例えば眠りに入るには意識するしないにかかわらず(外界を信頼して)自分を投げ出し布団やベッドや世界に全てを委ねリラックスする必要がある。ところがなかなか入眠できない時に「眠らなければ、眠らなければ」と自分でやみくもに頑張ってしまう人のなんと多いことか。頭が考え続ければ神経はより覚醒してくる。それは例えば、荷物を積み過ぎて沈没しかけている船に、かえって荷物を積み込んでしまっていることになるのだ。

 何ごとも焦りに嵌ってからでは手遅れである。よい対策を立てるためにまず問題となっているものをよく見抜かねばならない。特に心に関しては盲点と逆説が至るところにあることに注意せねばならない。心がなぜ「安らげない」のか、どうして「緊張」してしまうのか、その辺りがいったいどうなっているのかを心理学によって見抜いていくのだ。この節では「やすらげない私たち」の節で述べたことをより深めて考察したり、また少し違った視点から見たりしながら人の心身について理解をより深めていく。

 心にとっての最大の至福感は禅仏教などで言われる悟り体験であろう。悟り体験のさいには心が心底解放されて非常に深いやすらぎ感があるという。でもそれは一般的ではなくて取っつきにくいので、もっと身近な我々が普通に体験もするようなリラクゼーションの範囲で考えてみよう。

 一日のリズムでいうと、身体は昼間は自律神経の交感神経が優位に働いて活動して、夜は副交感神経が優位になって眠り休息する。これは他の生物なども同じで、生命体の自然の働きである。例えば植物にしても活動と休息はある。私が子供の頃、ねむの木の葉が夜になると閉じてしまっているのを見た。その葉っぱ閉じている姿がいかにも眠っているようで、非常におもしろく感じたことがある。生命体は活動と休息、緊張と弛緩を繰り返しながら生命体本来の知恵を生かして生きているのだ。

 けれども同じ生命体なのに人間の場合はだいぶ複雑のようである。自然のままに行かなくなった部分が増え続けている。今、生きている近代人であるということ自体に深いリラックスや安心感を得ることができない根深い問題があるのだ。

 人はこの地球において科学を発達させて生き残ってきた。その科学的、意識的思考は人間だけが持つ特徴である。とても便利な近代社会は科学的思考によって構築されてきた。誰もが目を見張るインターネットなど近年のIT関連の発達。その他にも様々な分野で人間にとってより便利で役立つものが科学の力によって開発され続けている。科学の発達で生産性を高めるための効率化も進み続けている。その昔、東海道五十三次といわれた江戸から京都までを行き来するには徒歩で片道13日から15日かかった。今は新幹線のぞみで約2時間20分だ。

 しかし便利は良いのだが生産性が高まり無駄がなくなるのと裏腹に、のんびりする時間もどんどん圧縮されていっている。私個人をとってみても子供時代にあったのんびり感などまるで嘘のようで、郷愁を誘う気持さへどこかに行ってしまったところにいる。この近代都市でのとても便利な生活は、私たちの大地に根差した生き方と引き換えに得たものなのである。今から約八十年(1938年)前にチャップリンが映画「モダンタイムス」で皮肉った人間の機械化は今では誰も疑問視しない普通のことなってしまっている。睡眠時間までもが短くなった。最近では日本人の平均睡眠時間は六時間前後という。

 心の悩みで相談室に来談される方は「どうして良いのかわからなくなった」「自分がどうしたいのかわからない」と言う。子供の頃学校で「よく考えて答えを出しなさい」といわれてきたのだ。それを素直に実践し続けて悩みに陥った人があまりにも多い。この科学的な解決方法である「よく考えて解決する。よく考えて行動する」という理性的な解決方法は素晴らしく良い手法である。けれども一方に良いものはもう一方に悪くでる。両刃の剣である。それを用いるには注意深くあるべきなのだ。

 このように言葉を使っていくこと自体が物事を規定する枠となり境界を設けていることになる。日常を振り返ってみると「思い込みがあった」と言うような場合とか「レッテルをはる」などのように、事実とズレたことを言い表す言葉がある。

 少し複雑になるがもう少し踏み込んで考えてみよう。科学的、意識的思考の働きの基本的なものとして二分法的思考がある。「分けて」考える「区別する」ということである。これは線を引く、境界を作るということにもなる。この働きの視点を取り入れて、今まで述べてきたことを少し違った視点から再考察してみる。例えば男と女と分ける場合に男という枠、女という枠というような感じで見ていくのだ。さてその枠ということで考えてみると、人間には環境的な枠組みや社会的な枠組みや家族的な枠組みがある。また個人の立場の枠組みやその個人の内にも価値観を伴った自己概念などと名付けられるような自我の枠組みがある。

 このように人は、さまざまな枠組みを作り出すことによってその中で生きのびてきた。人は環境的にも心的にも価値観を伴った枠の中にいることで安心して生きていける。ところで枠組みを持つことは、その枠組みに入らないものは排除しなければならなくなる。そしてその排除に成功するとその枠組みが永遠に続くかのような錯覚にいたる場合もある。

 一個人の心にも同じことがいえる。最近では、小さい頃からあまりに「良い子」は大きくなってから問題が出てくるというのが定説となっている。自我の枠組みに収まり切らない無意識に押さえこんだ心的エネルギーが出口を失って症状となって突き上げてくる場合がある。神経症や心身症などの症状である。それは今までの枠組みのあり方では限界が来ている証拠でもある。

 その時人は、今までの枠組みをもっと強化できるように防衛機制を働かせる。突き上げてくるものを排除してもらおうと手助けを頼んだり、新たな枠組みを見つけようとしたりして安定しようとするのだ。しかし、一見強い枠組みのように思える純粋な教義や合理的思想などは柔軟性に欠ける。強い枠組みであればあるほど、受容する力には弱く、排除も強くなる。するとその反動も大きくなり、結局はすぐに行き詰まってしまうのだ。例えば本などの知識や宗教的な教えのようなものを、何の吟味もないまま取り入れるとする。でもそれは知的な枠組みなので、必ずその人自身の内面の感情を排除するように働くことになる。

 枠組みによって安定しようとすることは、逆説的に分離を味わうことになるのである。「~ねばならない」という枠組みがこれにあたる。詰め込み教育と言われるものなどにはその傾向がある。個人の自我(枠組みのあり方)は強くあるべきだが、かといってあまりにかたくなで一面的では必ず行き詰まってしまう。

 一面的でない柔軟性のある自我が必要である。排除したものに耳を傾けることができるような受容性と、物事に向き合い時には対決することが出来るような強さも兼ね備えねばならない。変化しながら安定していられるような相矛盾した枠組みが必要である。これはこう言っている私自身でも、こんなのできるのかしら、と疑問に思うくらいに難しいあり方である。

 でも精神科医で心理療法にも長けた神田橋條治先生は、クライアントに、この理想的な自我になってもらうためにまずは「葛藤能力の育成」が必要であると言っている。またユング派の分析家であった河合隼雄先生はこの辺りを「二つと良いことさてないものよ」と冗談めかして言っていた。このような相反する側面を見ていけるような複眼の視点を持つことが柔軟性のあるしなやかな自我のはじまりである。それによって一面的に偏った考え方から抜けでて、広い視野に立って物事に対処していくことができるようになるのである。

 さて人は自然の存在であるのに科学の発達、機械化でますます大地と切れた生き方が進みつづけている。その科学はキリスト教の考え方を元に発展したものである。キリスト教は古代からあった自然崇拝(アミニズム)的な宗教観を否定し破壊しながら発達してきた。キリスト教は自然の恩恵を得られない、何もない砂漠に住む遊牧民が育てた宗教観である。それは緑豊かで自然からの恩恵を得ることのできる地域の、自然と共存を図ろうとする宗教観とは正反対の考えとなる。砂漠の自然と共存すれば死しかない。生き延びるためには戦うしかないのだ。「自然は悪なので人間の理性によって克服するべきもの」という思想となるのだ。

 科学的思考は合理的に分けて考え、計算していく理性の能力が全てである。その科学は地球をよりよく支配しようと今なお発展し続けている。けれども科学的発展の弊害が大きく出始めてしまった。それはもう地球自体を限界に追いつめてしまったのではないだろうか。また皮肉なことに、この科学的思考の発展によって、科学の発祥の元であるキリスト教の、神自体が信じられなくなっしまった。

 アメリカでは弁護士の数が日本の40倍以上いるという。ユング派分析心理学者であった河合隼雄氏はある講演会で「神との関係とかを抜きにして倫理を考えだすと結局、法律がすごく強くなってくる。アメリカは訴訟が多く訴訟に勝つものが勝ちということになってしまう」というようなことを言っていた。そこには人情や誠実な心などが入り込む隙間はない。

 個人の内面をとってみても、自分の心身の働き(本能やリズムやその人のペース)からも分離し続けて自我の欲望に合致するヴァーチャルの世界としか融合できない脳になりつつある。科学の発達は人の内面心理にも強い影響を与えて「我思う故に我あり」と感じる自我自体が緊張を解くことのできない現代人の心性となってしまったのだ。

理想的な心身の状態(葛藤能力)

 禅の名僧や、ヨーガの修練を積んだ修行者は、非常に理想的な心身の状態を維持していると言われる。それはどのような状態かと言うと「休みながら働いている」「無駄な緊張がない」「非常にリラックスをしているにもかかわらず、非常に冴えていて感受性の良い状態」などと相矛盾するものを併せ持っているのだ。

 座禅をしている禅僧に皮膚刺激を一定の感覚で与えてみると、普通の人なら皮膚感覚に対する人体の反応が次第に鈍くなり麻痺してくるのに対して、禅僧はいつまでも刺激に対する反応(感受性)がちゃんとある。子供の頃、時代劇映画を見ていると主人公の侍が高いびきで眠っているところへ賊が忍び込んでくる。するとヒーロー侍は「殺気!」などと言って急に飛び起き、床の間の刀を取って居合で賊をやっつける。私は「凄いなぁ、でもあんなに深く眠っていたのに、ほんとにそんなことできるのかしら」と疑った。でも先に述べたことからかんがみれば今では、確かにそのような剣士もいたのではと思える。

 速く走るためにはただ筋肉が素早く強く緊張できるだけではなくて、素早く脱力して最大限弛めることができることも同じく必須である。やはりスポーツでも相矛盾する能力の持ち主がよいのだ。またヨーガの理想とする人とは徹夜も平気な無理が利く人や、病気をまったくしないなどというスーパーマン的な人物ではない。疲れが溜まってきたり、病気になりそうになったらそれに早く気がついて、早く自己回復できる人なのである。

 心に関しても同様で、やはり一面的ではない相矛盾する能力をバランス良く統合したあり方が良いのである。河合隼雄氏は作家やアーティストなどの創造性を必要とする人は「合理的思考とファンタジー能力」の相矛盾する能力をあわせ持つことが必要であると述べている。

 また神田橋穣治氏は心理療法の目標として「葛藤能力の育成」をあげている。河合隼雄氏は遠藤周作氏の言葉を借りてそのような状態を「苦楽しい」ことと表現していた。このようなあり方こそが本当に心の器が大きいということであろう。でもそれにしても「葛藤」とは正直苦しい。そんな能力をどうして育成しなければならないのか、早く解決する秘訣が欲しいのだ。などとつい思ったりしてしまう。

自分にあったリラクゼーションを見つけよう

 横浜心身健康センター心理相談室ではカウンセリングや催眠療法、フォーカシング、箱庭療法、その他幾つかの心理技法を用いてクライエントに心理的援助を行っている。また自分で自宅でもできる心理技法に興味のある方には、自己暗示法や自律訓練法、イメージトレーニング、リラックス体操などをお勧めしたりもする。これらの心理技法や心身リラックス法はそのどれもが深いリラクゼーションを目指している。

 心理技法や瞑想、ヨーガなどの修行方法でなければ深いリラクレーションに入れないわけではない。そのようなものより信頼のおける友人や家族の人に本当の気持ちを分かってもらったりすると楽になる。また自然の中に遊んだり、趣味に夢中になったり、楽しくお酒を飲んで酔っ払ったり、ペットとつき合ったりなども癒しに繋がる。日常の中で信頼や安心に包まれたり融け合ったりして、無理なく自然にやすらいだりリラックスできるのが一番である。けれども最近はそれがなかなか得にくかったり、得たとしてもそれだけで充分とはいかない時代となってしまった。

 現代では自分に合った心身の健康法をあえて意識して持つべき時代といえる。すでにその需要は増え続けている。アメリカではヨーガが当たり前の健康法として定着した。 更に日本でもヨーガは最近爆発的に流行ってきた。ヨーガだけでなくその他にもさまざまな心身健康法が増え続けている。いろいろあり過ぎてどれを選んでいいか迷ってしまう。

 そんな中で自分に合ったリラックスタイムやその方法を見つけるにはちょっとしたコツがいる。それは興味を持ったらまずちょっと試してみること。そしてなによりも自分に合っているかどうかの目安として「気持ちよさ。後味が良い」とか「おもしろい」「楽しい」というように、からだが喜んでいる感じを第一にして選んでいくことである。

★参考ページ:『心も休まる野田式リラックス体操』『催眠療法の長所について