意識の勘違い(心と身体と催眠)

催眠と悟り体験

 深い催眠トランス状態にある人の反応や行動は普段にはありえないような特殊な雰囲気があって、まるで魔法か手品のようである。

 でも実は私たちは日常で、この魔法か手品にでも見える催眠状態と同じ状態にしょっちゅうなっているのである。しかし日常でのそれは無意識的な心身の働きなので、意識はそれに気づくことができない。おまけに私たちは日常的に起こっている催眠状態と同じような心身の動きを、私(自我意識)自身がちゃんとコントロールしているからそうなっているのだと思い込んでしまっている。実は意識より身体が先んじてやってくれているのだが、それと気づけないのである。私たち(自我意識)は自分をほとんど統率しているつもりでいるが、実はほとんど統率できていないのが真実である。

 長年、催眠や心理学に携わってきて解ってくるのは、いかに私たちが自分の心身の働きに対して大きな勘違いしているかということである。

 この考えをもっと推し進めると「人は皆、日常において催眠術にかかっているのと同じ状態で過ごしている」とさへいえる。この考えはそれほど突飛なものでもなくて、例えば自分の境界が曖昧になってしまった統合失調症の中には、それこそ自分が催眠術によって操作されているような感覚に陥る人がいる。同様に自他の境界が曖昧になるように積極的に自他の隔てを取ってしまうことをもくろむ禅仏教などの修行によって、悟りの境地に至った人で似たような感覚になった人もいる。悟り体験のあった後日、煙草を買いに道を歩いていたら、自分の足が自分の意志を離れてかってに歩いてい る、という感覚になったことを述べている人がいるのだ。『中西政次・弓と禅・春秋社

 このような他動感は悟り体験の際しばしば起こることのようで、悟り体験後に足が勝手に歩いてると感じた中西氏は、その話に続けて「足を動かすのは何者だろ う」とも述べている。催眠研究している私からすると「催眠をかけてこの足を暗示で動かしているのは何者だろう」ということになる。両者をつなげていうと「足は意識が自分で動かしていると思おうと思わなくとも、すでにそのようにして動いている。イコール、前々から催眠にかかっている」ということになるのだ。

 悟りの境地に達した人たちは「あると思っていた自分はなかった」「全ては幻想である」などといかに自分(自我意識)が勘違いをしていたかを強調する。私は悟りの境地に至ったことはないので、その全てはわからない。でも催眠を研究工夫していく中から、自我意識が 様々な勘違いをしていることがかなり見えてきたのである。そしてこの意識の思いこみや勘違いから抜け出ることが、禅の悟りの境地には達しえなくとも、人をずいぶんと楽に、のびのびさせることになるのを実感している。

意識的動作と自然な動作

例えば手を動かそうとする時、実は意識で全てコントロールしようとしないでも、ただフッと閃いて、後はそれに連動して身体の方が自然に動作している。それは有機体(ニューロン群の活動といっ てもよい)の無意識的な働きなので、意識の方はほとんど気づけない。でも意識はまるで自分で自分の手を直接にコントロールしている気でい る。このことを脳科学の分野から述べた『マインド・タイム』という本がある。

 この、意識が「自分の心身を意識でコントロールしている」と勘違いしていることがよく納得がいく実験がある。催眠を理解してもらう時によく行う、シュヴリゥルの振り子運動(観念運動)である。2~30センチの細い糸の先におもりをつけ(50円玉などでも良い)振り子を作り、そのおもりが目の高さの位置に来るように顔の前にかざして集中し、その振り子を意識的にわざと動かすのではなく「動く、動く」と心で念じ、想像で動き出す所を思う。すると、うまく集中が出来れば出来るほど、その振り子が大きくゆれ動いてくる。意識的にわざと手を動かそうとしないでも自然に動くので初めて体験するほとんどの人が、非常に不思議な感じがするという。

 催眠術の誘導技法には、この不思議感をより強調し、被催眠者に「あ、からだが勝手に動いてしまう!」という思いになるような体験を次々おり重ねていくことで、自分によるコントロールが通用しないんだとあきらめさせる「自己放棄する」ように追い込んでいくやり方が ある。 このテクニックはまるで魔法にでも操られてしまっているような感じに被験者が陥るので一番催眠術らしい誘導技法といえる。

 ただ私は、このような他動感を催眠誘導者のすごさのせいのようなものとして思いこませていくような誘導技法はあまり好きではない。なんだか被験者を騙しているようだし、小馬鹿にもしている感じがする。それにこのような催眠誘導方法は催眠にかかる側からすると自己の統制感を勝手に奪われそうで納得できず、それに対抗したくなる人も多い。またこのような場合、被催眠者は催眠誘導する人に表面的にあわせておこうとする場合もあるので深い催眠状態に入りにくくなることもある。

 私の好きな催眠誘導スタイルは、まず被験者に先に述べたシュヴリゥルの振り子運動(観念運動)などを行う。そして「このように意識が全てをコントロールしているわけで はなくて、無意識的な心と体の働きは常にそこにあるのだから、想像だけしたら後はそれに任せていきましょう」とそのままを説明し、被験者みずからが自己 放棄していってくれるようにする。これは身体を常にコントロールしているつもりになっている、意識の勘違いを正していくということにもなる。またこの体験から、自分の身体(の動き)を信頼してればいいのだと思えるようになることは、人の心身の理想的なあり方である心身一如になるためのコツを会得することに繋がる。

意識の思いこみ、その思想

 先に述べたように、目の前にかざした振り子が、「動く動く」と思うだけで、自分で動かしているつもりはないのに勝手に動いてしまう。それを不思議に感じるのは意識の方が、手は自分「意識」でコントロールして動かすもの、と勘違いしているからである。

 でも実は、そうなるのは当然の成り行きで「動く動く」と念じイメージすることで脳が働くのみでなく脳と繋がっている体、 筋肉も随時連動して働くので、実際に振り子は動いてしまうという流れが見えてくる。イメージすれば身体は大なり小なり、それに連動して動くのが当たり前である。 例えばウトウト眠りかけの夢かうつつの状態の時に、足を踏み外すイメージが浮かんで足がガクッとなって目覚めたりすることなどがあるが、このことからもイメージと身体が強くつながっていることがわかる。

 けれども私たちには「よく考え計画して実行することが物事を成功に導く」という、理性(意識性)によって自他をコントロールしていくことがベストであるという思想が植え付けられている。

 私たちはまず学校教育で「何か問題解決をする時には理性を働かせてよく考えていけば良い」と教えられてきた。現代人はこの理性で合理的に思考することによって、現代科学を発展させ自然をコントロールしたり支配して便利に暮らせるようになってきた。この科学的思想は明解であり非常に強力であるので、さまざまなレベルに思想として浸透し、人のあり方や行動を決定している。心までこの やり方によってコントロールできると考えている人もいる。

意識的努力の限界

 この理性、意識性を特別強力に働かせているタイプの人がいる。几帳面とか完全主義といわれるようなタイプの中にそういう人がいる。時には淡々とした話し方で、声の抑揚まで意識で押さえてコントロールしている人もいる。一つ一つのことをやり終えるのに長い 時間がかかったり、鍵をかけたか、ガスの栓を閉めたか何度も確認するなど。強迫性症といえそうなレベルまで強く意識性を高めて自分で歯止めがきかなくなっている人もいる。

 このように「気がすまない病」とでもいえそうなまでに意識的努力を重ね続けることは、元にある「ありのままの私たちの心身」のペースからどんどんと解離していくことになるので、そのギャップによって本人はとても苦しい状態に陥ってしまう。

 強迫性障害というレベルまではいかないまでも、意識的努力が実らないことでとても苦しんでいた典型例を二つ取り上げてみよう。

 ある女子高生は大学受験のために毎日四、五時間やる長期的な受験勉強の計画を立てた。でもいざやろうとすると、いっこうに勉強に身が入らず思い悩んで心理相談に来談し た。そして他の悩みも整理したりしながら、カウンセラーと話し合い、二度目の面接に来談した時にはスッキリした感じで「受験勉強は、その時々、やりたくない時は無理をしないでやらないでおき、気持ちが乗った時には長くやるようにしたら、結局平均では四、五時間勉強できるようになりました」と言って悩みは簡単 に解決した。

 またある青年は、演技の勉強に通う中で舞台稽古をする時、あがってしまってうまく演技が出来なくなる悩みで来談した。初回の相談でいろいろ話 し合ったが二度目の来談の時には、もうあがりはなくなって、おまけに演技する役にうまく入り込むことが出来るようにもなったと言う。

 彼は初回に来談した後に、テレビでフィギアスケートを観たらしい。そして氷の上で演技している選手を周りの観客が応援しているありさまを目にした時「心は自分の体を信じて応援する側に回れば良いのでは」と思いついた。それまでの彼は演技をする時、その演技の隅々まで完璧に意識でコントロールして演技を行おうとしていたらしいのである。フィギアスケートを観て気づきがあった後の演技練習で、意識的努力をやめ、演技を体に任せるような感じでやってみたらあがらずにできたばかりでなく、その役の感情まで感じながら演技できたと喜んでいた。

 この二人の事例はともに意識的努力で無理に自分をコントロールすることをやめ自身の心身のペースを大切にして、それに任せることが出来るようになったことで問題が解決されたわけである。

意識的努力と心身の働きとのズレ

 先に述べたような事例によって、意識性を高くして物事を達成しようとすることには、その本人の心身自身のペースとのズレが出来てくるために限界があることがわかる。よく用いられる「成せば成る」「根性で乗り切る」「プラス思考」などというのは意識で自分をコントロールするための強い思いこみであるが、そこには自我意識に よって身体も含めた自分自身を思い通りにコントロールしようとする考えが潜んでいる。精神力で自分の心身を超越して行けるかのような自我意識の思いあ がり(エゴインフレーション)がうかがえる。

 この行き過ぎた考え方と心身のペースとの大きなズレがうつ状態によく見受けられる。脳も含めた心も身体も全く疲れきっているのに、このような意識的コントロールによってそれをも乗り切ろうと頑張り、無理を重ねてしまったのである。まじめ過ぎるくらい真面目なためにうつ状態にあってもまだ身体を常に意識でコントロールしようと頑張っている。疲れはてた心身はもう目覚めている時でも休息したくてほとんど動かない。でも本人にはそんな身体の状態が、まるで怠け者やダメ人間のように思えしまうのだ。そして自分を責めたり卑下するようになって、ますます心と身体の解離が拡大する悪循環に陥っていく。

 やはり限界ある身の人間だから疲れたら休み、心も含めた心身の調子が整ってから頑張るのが本筋である。これこそ本当の「プラス思考」といえる。

意識的努力と集中力の関係

 うつ状態とは逆に、身体は疲れていなくて乗り切っていく力を持っているのに、心(自我意識)がマイナス面を意識してしまうことで、そのマイナスイメージが身体にも反映して全力が出せなくなってしまうことがある。よくテニスの試合などで解説者が負けが込んできているテニスプレーヤーを「集中力がとぎれましたね」とか評している時がそれである。例えば自分のしたミスや、審判の曖昧な判定に納得がいかなかったり、何かを気にして今現在のプレーに心身一丸となって取り組めなくなっている状態である。

 これは先の「意識的動作と自然な動作」の節で述べたシュヴリゥルの振り子運動の実験で振り子がスムースに動きにくい、被暗示性が低いといわれる一群の人たちの思考をふり返ってみると、そこのところがどうなっているのかよく理解できる。振り子は意識的に動かさなくとも心で「動く動く」と念ずれば必ず動くものであることをよく説明して、素直にただそれだけを念じるようにと指示してから実験を始めるのであるが、それでも振り子がスムースに動かない人がいる。そこで実験をいったん止めて、その際に頭で考えたことをふり返ってもらうと、何 らかの理由から素直に「動く動く」と思い続けることができず、他のことを考えてしまっていることが必ずと言っていいほど見つかる。

 時には、勝手に振り子が動き出しそうになったので驚いて「どうして動くんだろう」と振り子を持っている手の方を見てしまう人や、誘導者の言うとおりにうまくやらなくてはと意識しすぎている人などがいる。集中し切れてないのである。このような時には当然その他の思いが「動く」と念ずる心をじゃまするのだから振り子はスムースに動くわけがないのである。

 ある中年女性に催眠療法を行う前に振り子実験をしてみたら、振り子が勝手に動くことはよくわかったけど振り子のゆれはほんのわず かであった。次に催眠イメージに取りかかろうとする前に目を閉じてもらって、フォーカシングで自分の内面とからだに注目してもらった。すると「頭がクラクラする」と言い、また眉間の方には痛みを感じた。それでまず頭のクラクラする方にフォーカスしてもらうと「(治療者に)逆らえない」という言葉が思い浮かんだ。次に眉間の痛みの方に注目すると「催眠に入らねば」という言葉が浮かんだ。フォーカシングを行っているうちにその頭のクラクラと眉間の痛みは緩和されてきたが、ほんのわずかしか振り子が揺れなかった時の彼女の内面には、頭のクラクラ感や痛みの症状にまでなっていく心の頑張りや葛藤が立ち起こっていたのである。

 そこで彼女に「催眠を体験するには意識的に頑張る必要はないこと、遊び感覚でやってみること」を勧めてから、軽い催眠誘導を試みた。それほど深い催眠状態には入らなかったがイメージはよく浮かんだので心理治療的なこともできたし、また心地よいリラクゼーションもできた。もし彼女が「逆らってはいけない」とか「催眠に入らねば」とかの頑張りのままで催眠療法に入っていたなら、催眠療法は確実に失敗していただろう。

 催眠に入るということは「意識的努力(意識的にコントロール)することを手放して、催眠誘導者のリードに感情移入する」ということである。ところが彼女の場合は意識でうま く催眠に入らねばならないと思ってしまっていて、努力する自分を手放すことができずにいたのである。このことからわかるのだが、催眠に入りにくい人とは「意識性が高く自分を常にコントロールしていようとする人」「理性が強く働いて自分を強く保とうとする人」「自分を人に任せることのできない人」といえる。

 この意識的努力を手放して想像(イメージ)活動に専念する、ということは催眠術に入る入らないということに限らず、日常でやる集中活動の全てに共通する。「意識的努力の限界」の節で述べた女子大学受験生や役者志願の男性は、受験勉強や演技力を意識的コントロール(努力)で乗り切ろうとしてい行き詰まっていた。この二人が悩んでしまった背景には「意識の思いこみ、その思想」の節で述べた「理性でコントロールしたり意識的努力や意志力でやっていくことが物事を成し遂げるのだ」という価値観へのこだわりがあった。それを「自身の心身を信頼してそのペースに委ね任せる」というやり方に転換することで悩みを解消できたのである。

 もちろん意識的努力も意志力もなくてはならないものではある。でも「意志力や意識的努力で頑張る」というより、おもしろくてあっという間に時間が過ぎてしまった。夢中だった。などというような(感情移入)状態こそが心身の能力を最大限発揮している時なのである。この方がより生命体の自然な活動に即したやり方といえる。この「我を忘れて夢中になる能力」こそ 物事を成し遂げていくための基礎能力である。より具体的にいえば「子供が夢中になって楽しく遊んでいる時のあり方が物事を成し遂げるための基礎能力」ということになる。

参考文献

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