催眠療法の歴史

 十八世紀後半にメスメル(1734~1815)は、星の磁気が人間に影響を及ぼす。磁石は放射線によって人体に影響を与えるという動物磁気説をふまえて装置を作り1778年にはパリで磁気桶による集団治療をはじめた。メスメル以前には悪魔祓いなどの心霊療法家はいた。でもそれは現代科学においてもその根拠の証明ができない範疇である。しかしドクトル・メスメルの「動物磁気」説は一応物理現象であり、科学的であるという触れ込みでアピールされて流行ったのである。

 しかし、フランス国王ルイ16世が設立した、フランス科学アカデミー委員会により、磁石は患者が磁化されているということに気づかなければ治癒をもたらさないことを発見し、その効果は患者自身の想像や信じることによると結論した。

 このメスメリリズムは結局インチキということになってしまうが、彼の弟子であるピュイセギュール(1751~1825)は、その磁気治療の最中に起こる、磁気睡眠と名づけた現象を見出す。今でいう催眠トランス状態である。磁気治療中に患者は暗示に対して従順であることと、磁気治療から覚めた後で、記憶に健忘があることを発見したのである。メスメルが催眠療法の起源であると言われるのはピュイセギュールが、この催眠状態において特徴的な現象を発見したからこそともいえる。

 その後、イギリスに渡ったメスメリズムを用いて1843年には医者エリオットスン(1791~1868)が1847年には同じくイギリス出身のインドの外科医エズデイル(1808~1859)がかなり多くの無痛外科手術を行った。この手術方法は、より便利な薬物による麻酔に取って代わられたのではあるが、それまでの麻酔なしの死亡率の高い、乱暴ともいえる外科手術から患者を磁気睡眠状態にして無痛手術を行うという、現代の麻酔外科手術のきっかとなる画期的な手術方法であった。彼らはかなりの数の外科手術を成功させたようであるが、当時の医学界には無視された。

 確かに催眠トランス状態では痛みが軽減するし、エズディルが発見した術後のショックが軽減される点などは、薬物麻酔より精神面にリラクゼーションが行き渡った上で手術ができるので、予後に効果的でさえある。しかし実際的な面で催眠では誰でもが無痛を感じないくらいの深さに入れるわけではないし、その状態に導く催眠誘導には時間も手間もかかるので、医科手術においてはほとんどの人が即座に確実に無痛になるエーテル、クロロフォルム麻酔が何倍も便利なわけである。

 同じくイギリスで同時期、医師ブレイド(1795~1860)はメスメリズムを研究、工夫する中から現在でも使われることのある催眠誘導技法の一つである凝視法をあみだした。またブレイドはそれらを(hypnotism)催眠術と命名した。ブレイドは暗示によって被験者に影響を与えるということや、一つの観念に注意集中させることで被験者の知覚野を狭くすることであると催眠を解説した。

 アメリカのフィニアス・P・クィンビー(1802~1866))はあるとき重い病気にかかり、メスメル派の治療者によって癒された。そして彼自身も治療者となる。彼は次第にメスメル派と別に「精神および心の変容を通じて信仰による癒しを経験する能力がある」という考え方を人々に解き始めた。このクィンビーの思想は「ニューソート」や「ポジティブ・シンキング」としてアメリカで広まっていった。クィンビーは「潜在意識の法則」を提唱したジョセフ・マーフィー(1898~1981)やナポレオン・ヒル(1883~1970)などのアメリカン成功哲学の元祖である。

 フランスの内科医リエボー(1823~1904)と神経学者のベルネイムは協力して多くの患者に催眠療法を行い研究を深めベルネイムは「暗示について」を文章化して発表し、その中で催眠の基礎は暗示であると言った。1880年代フランスのナンシーの町近くで開業していた内科医リエボーは悪評の立っている磁気術ではあるが、それを望む患者には無料で施していた。1882年、チフスの研究で有名な内科医学者ベルネー ム(1840~1919)は、長年座骨神経痛で苦しんでいた彼の患者がリエボーの磁気術によって完治したと聞く。そこで直接リエボーに会い、その治療を見たベルネームはリエボーの治療法を認め彼の弟子となったのである。

 この後ふたりは、直接暗示による症状除去を基本とした催眠治療を行ない。1884年と1886年には『暗示とその治療への適用』を二度出版してシャルコー(1825-1893)らのサルペトリエール学派との催眠理論対決に勝利したのである。それによって二人の名声がヨーロッパ全土に広がり、彼らの催眠療法を学ぼうと多くの医師が集まってくるようになった。そのリエボーとベルネームを中心にした催眠研究グループはナンシー学派と呼ばれた。

 ナンシー派との論戦に敗北したサルペトリエール学派は、パリのサルペ トリエール病院を中心にした一団で、シャルコーはそのトップであった。彼はパリ大学の教授でもあり、王侯貴族の侍医でもあり、ヨーロッパで随一の医学的権威となった人物である。また筋萎縮性側索硬化症の記述や脊髄癆の際の関節症の記述などの医学的業績も残している。しかし1882年に発表した「完全な催眠」として段階づけたその論文はお粗末なものであった。

 権威ある医師シャルコーの催眠術でヒステリー患者が発作を起こすその状態を中心に理論づけてしまったのである。彼のいう「レタルジー」「カタレプシー」「夢遊状態」の三種は深い催眠トランス状態においての暗示で立ち起こってくるさまざまな現象の一部分といえる。あまりにも権威高いシャルコーは裸の王様同然となってしまい、その権威あるシャルコーの周りに立ち起こってくる心理現象や対人関係の本質を見抜けえなかったと推察される。

 自己暗示法の創始者である薬剤師エミール・クエ(1857~1926)はリエボーとベルネイムのいた町ナンシーで催眠を学んだ。クーエはのちには覚醒暗示だけで治療を行い、その方法はクエイズムとも呼ばれた。

症例「アンナ・O」とカタルシス療法

 精神分析の創始者であるウィーンのフロイト(1856~1939)は十四歳年上のヨゼフ・ブロイアー(1842~1925)と親しくなり、彼からヒステリー症のアンナ・O(1859~1936)の治療例を聞き興味を持った。その後パリに行きシャルコーに催眠を学び時を経て再度パリに行きリエボー、ベルネイムに催眠を学んで初期の頃は催眠療法を行っていた。そして1895年にブロイアーとともに「ヒステリー研究」という本を出したが、そこに臨床心理学界で一番有名な症例といえる『アンナ・Oの事例』を載せた。ブロイアーとの治療過程の中でアンナ・O自らが(心の)煙突掃除などと名づけて自然に行いはじめたやり方を、フロイトとブロイエルがカタルシス法(浄化法)と名づけて一般化したのである。

 それまでの催眠治療は症状を除去するための直接暗示一辺倒だった。そこに『過去のトラウマが現在の症状の原因となっていて、それを思い出して、それにともなう感情を吐き出させれば症状が消失する』としたカタルシス法(浄化法)は心理臨床的な大きな発見とともに、画期的な心理技法となった。またこのことは催眠療法だけでなくフロイトが精神分析理論を打ち立てたり、現在に至るまで、さまざまな心理臨床学者が症状の原因として生育歴に注目していくという考え方の元祖といえる。

自律訓練法・自律性解放

 オスカー・フォークトは1895年から1900年にかけて精神生理学的な観点から催眠の研究を重ね学術雑誌に発表していくがそのなかで治療的暗示を施す前の中性的な催眠状態が健康に有効であることを見いだした。またフォークトは自己催眠を行うことで気分が和らいだり疲労や緊張が軽くなることがわかり精神予防的休息と呼んだ。そしてシュルツはそのフォークトの研究結果を参考に1920年頃から自己暗示的な方法で中性的な催眠トランス状態に入れるようにと自律訓練法の開発研究を進めて1932年に自律訓練法-集中性自己弛緩-として著書を刊行する。

 催眠状態における治療的な状態に入ることを目的とした自律訓練法は自己催眠の一つといえるがシュルツの著書の副題にもあるように結局は心理的生理的な弛緩(リラクゼーション)状態を作り出すということである。それは体系づけられていてだれでも段階をおって練習を積み重ねられるように構成されている。

 シュルツの弟子であるルーテは自律訓練法を自律療法へと発展させたが、その精力的で非凡な研究成果は五冊の大著として出版されている。そしてその研究内容には今後の大脳を中心としての様々な心理生理学研究にも役立つヒントが数多く含まれているように思われる。

アンナ・O以降

 その後フロイトは催眠をやめて自由連想法を用いながら、例えば無意識というものを想定したように人間心理や神経症を概念化していき精神分析療法を発展させていく。

 1900年にチューリッヒの精神病院の助手となったユングもまた初期の頃は催眠療法を用いて治療を行っていたが、やはり催眠療法はやめてフロイトの考えに同調し一時はフロイトと師弟関係を結部までに至りながら最後は独自の分析心理学を発展させていく。ユングは催眠療法でなんだか分からないうちに治癒してしまうことが耐えられずに催眠療法をやめたと言っている。

 フロイトとユングの両巨匠とも心理構造を分析し人間心理を深層心理学として構造化していく方向を歩んだわけだが両人ともに基本は自分自身を見つめ意識化してそしてそれを基にしてその心理学をうち立てていったのである。フロイトの精神分析学が広がりを見せたのち、その他様々な心理療法理論や心理治療方が生み出されるなど心理学の発展が盛んになるが催眠療法自体はフロイトに拒否されたものということで次第に用いられなくなった。

 フロイトの精神分析の研究から自我の防衛機制をまとめあげたフロイトの娘アンナ・フロイトは「催眠は催眠は自我の同意なしに他人の心の中に土足で踏み込むので危険である」と言って催眠療法に反対していた。彼女のこの考えは非常に卓見で、催眠療法を行う際にはもちろんのこと、他のさまざまな心理技法を用いた心理療法をおこなう際にもアンナ・フロイトの言うようになりはしないかと気をつけながらそれを用いるべきである。

 フロイトの精神分析の影響で、催眠療法はすたれていったが、犬に餌を与えて、しまいにはベルの音だけで犬が唾液を出すようになる。という条件反射の実験で有名なパブロフは催眠をやめないでいた。この系譜はその後アメリカで心理学の一大潮流となる行動療法における催眠の系列となる。

 第一次世界大戦で数多くの戦争神経症患者の心理治療方法として催眠療法も用いられるようになる。英国のハドフィールドは催眠状態で精神分析を行う催眠分析と呼ばれる手法を考案するがそれはブロイエルのカタルシス法のより洗練されたものといえる。
大戦後アメリカで催眠療法が注目されたが、この際資格問題など大学において強い権威付けが行われた。そして学術書としての催眠研究書などが発刊された。

 けれどもそのアメリカだけでなく世界的にも注目されるのはミルトン・エリクソンである。エリクソンは行動療法のハルの催眠公演を見て自らも催眠実験を行うようになった。そしてポリオという大変な病気を抱えながらも意欲的に催眠療法を深めて晩年は車いすの魔術師とまで言われるほどに心理療法に熟達したのである。しかしエリクソンにおいては、その突飛にさえ思える治療の技に眼を奪われがちであるが、それは彼の本質ではない。彼の第一の素晴らしさはクライアントをよく解る能力であろう。読みが深いからこそ、他人にはアンコモン(普通じゃない)と見える心理療法が行えるのである。

日本における催眠療法の歴史

 明治時代となって文明開化の進む中において、催眠はその魔術的な側面を大いにはらむ特異な(催眠)術として日本に入ってきたのである。

 中期ごろには催眠という言葉が一般にも広まる。その頃には催眠術は一応心理学に位置づけられようとはしていた。でも元蘭学者の医師馬島東伯は、心的原因からくる症状とは関係ないような、コレラを催眠術で治す話しを講演したり、 明治25年には脊柱湾曲症の催眠治療について帝国大学で講演したりしている。これらはどこまで役立ったかは不明である。また文学者夏目金之助(漱石)もアーネスト・ハートの「催眠術」という催眠の本を翻訳している。

 明治時代の後期に入ってくると福来友吉(1869~1952)が催眠や心理学の研究を始め(明治39年)には「催眠術の心理学的研究」で文学博士号をもらっている。その後、東京帝国大学助教授となるが、千里眼で有名になった女性の実験などに熱心になり、超心理学の研究へと進む。千里眼で有名になり福来友吉の実験にも参加した女性二名のうち一人は自殺し、一人は病死してしまう。福来友吉はその後も念写や透視の研究を続けるが、大正時代に入って間もなく東京帝国大学からは追放されるに至る。

 夏目漱石だけでなく明治後期には森鴎外が、医師に催眠をかけられていたずらされた妻のことを小説に書いた。それは実際に鴎外の妻に起こった事実だったようである。他にも谷崎潤一郎がおもしろおかしく取りあげて書いた催眠術書を出したり、また小説にもしている。芥川龍之介も催眠術を評した論を月刊誌に述べたりしている。

 大正6年(1917 )には中村古峡が「二重人格の少年」という事例で、盗癖の矯正のために催眠療法を施術していて二重人格が現れたとして発表している。これに関してはユング分析心理学の河合隼雄が昭和46年(1971)に出した『コンプレックス』という著書の中で催眠療法と二重人格の関連性について詳しく検討している。

 それによると、中村古峡は最初の治療において「少年をすぐ催眠状態に入れ犯行を自白させる。次に暗示法で錯覚と幻覚を利用して、不良少年の終いに落ちていくべき監獄の凄惨な光景を詳細に目撃させた後、窃盗などという悪心の起こらない暗示を与えた」とある。・・・催眠の中といってもこれはまるで脅しである・・・

 この点を河合隼雄は次のように解釈している『このように全く手荒な方法で盗みを禁止された時、この少年の自我は一面的な善人となり、強引に追いやられた悪心の方は第二人格として発達してゆかざるを得なかったのではないかと思われる。・・・中略・・・催眠によって、患者を急激に「よく」しようとするとき、それは自然を無視して患者の自我の一面化をはかることになり、従って、第二人格の育成に、治療者が協力していることになりはしないだろうか』

 この問題は二重人格に限らず、現代において催眠療法を行う際にも必ず注意すべき点である。それは催眠療法自体が基本的に(河合のいう強引になりかねない)指示的要素を強くはらんだ治療技法だからである。またもう一点、催眠療法を望むクライアントは急激に「よく」なりたいからこそに催眠に期待して来談するので催眠療法家はどうしてもそれに引っ張られてしまってその点からも無理(強引)をしがちになるからでもある。

第二次大戦後の日本における催眠療法の歴史

 第二次大戦戦後、日本では一般には藤本正雄の本がベストセラーとなるし、テレビの流行とともにその魔術的側面から催眠もテレビ番組に取りあげられるようになった。その後にはTVアフタヌーンショーに催眠のコーナーに長期に出演した守部昭夫が民間の催眠教室を立ち上げ一時は主要都市4,5ヶ所に催眠教室を持つに至っていた。しかし守部昭夫の催眠教室内で働く催眠療法士の多くは催眠療法に限ったものを短期に学んでいるだけで、心理療法家としての素養が十分でないために、催眠によく深く入るクライアントなど、限られた治療効果しかあげていなかった。

 大戦後のアカデミックな催眠療法の第一人者としては成瀬悟作(1924年~)がいる。彼は応用心理学という講義で催眠を見て催眠に道に入った。そして1959年に出版した『催眠面接の技術』(誠信書房)をかわきりに催眠療法に関する著作も多い。ウィキペディア(フリー百科事典)を参考にすると、成瀬吾策は、池見酉次郎らとともに「日本催眠医学心理学会」を設立して学術面から催眠研究に尽力し、多くの優秀な弟子を輩出して現在でも大学教授として活躍している人も多い。成瀬先生は脳性麻痺の子ども達の訓練をするようになって後年、動作を用いて人の生き方や健康を援助していく方法である臨床動作法を創始し、晩年はそちらに重心が移り、催眠や催眠療法からは離れている。

 成瀬悟策の貢献は計り知れないものがあって、特に1968年~1979年にわたって開催された全国規模にまたがる研究者や催眠療法家の集う「催眠シンポジアム」は約毎年一回開催され本となって発刊された。それはその後、それを引き継ぐように1977年から発刊された、京大の河合隼雄、東大の佐治守夫、九大の成瀬悟策に三人の編集者による「臨床心理ケース研究1~5」の発刊とともに、日本の心理臨床の発展の下地となったものである。しかしこの辺りから次第に催眠は学術面での表舞台から退きはじめる。そして催眠療法以外の心理療法が台頭、発展して現在に至ることになるのである。

 現代の日本の心理臨床界では認知行動療法や禅やヨガを取り入れたマインドフルネスなどの流行もあるが、やはり日本の心理療法の下地を作ったといえるロジャーズ派のカウンセリングとユング心理分析学派の河合隼雄の影響が大きい。催眠に関する学会が
大学などに置かれてはいるが、その活動は地味である。催眠療法家個々人においての催眠臨床活動はそれぞれ頑張っておられるだろうが、社会に影響を与えるまでの活動は無いといえるだろう。今のところ一般に目立つのは前世療法的な立場の中で用いられる催眠療法くらいである。

 ・・・・続く・・・・


時代性にマッチした催眠と催眠療法の工夫と研究