自分を知るための心身相関図 催眠・禅・意識の勘違い

はじめに

 私は長年催眠療法に携わってきた。また個人的な興味からだが、禅修行にもかなりの年数取り組んできた。催眠と禅、このふたつは一見相いれないもののように見える。催眠トランス状態では、催眠誘導者が導く暗示・イメージの世界に夢中になって、時にはまるで鳥になって空を飛んでいるつもりになる人さへいる。逆に禅は、仏陀が真理を体得した人である覚者と呼ばれるように、目覚めた状態を追求するものである。曹洞宗の開祖、道元禅師は中国で悟ってのち日本に帰国して「…当下(とうげ)に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞せられず(人に騙されなくなった)…」と言っている。催眠と禅は真逆のものなのである。

 ところがこの両者には強い共通項がある。催眠も禅も我を忘れる(忘我)状態 によって成り立つという点である。以前に『究極の催眠療法』のページで詳しく述べたが、この点に関して両者の違いは、催眠の場合は忘我状態にあって催眠誘導者に自分を委ねる。禅の場合は忘我状態にあって、今(宇宙生命体)に自分を委ねる。という違いだけである。

 催眠療法を用いるさいには、クライアントにできるだけ深い催眠状態に入ってもらう方が治療的に役だつことが多い。そこで催眠療法士は催眠技法を用いてクライアントが、我を忘れて催眠に没頭してもらうようにといろいろ工夫する。また催眠にかかる側の人(クライアント)は催眠療法士を信頼して我を委ねていくことになる。我を委ねるとは我を忘れることでもある。一方、禅の修行において「どうしたらうまく悟れるだろう」などと意識的に頭を巡らしているうちは悟りにはほど遠い。そんな我を手放し、手放しして行く過程で、深い忘我状態が続いた後、認識が戻ったさいに大悟徹底が訪れるという。

 このように催眠も禅も「忘我状態」がキーワードだと気づいてから私の最大の関心事は、どうすればより良い忘我状態になれるのか、という一点になった。「一体我を忘れるとはどんな状態なのか。…もちろん、このようなことを考えてない時が忘我状態であるといえるのだが…」この辺りで試行錯誤していく途中経過でうれしいことに、禅で学んだことが催眠に役立ったり、その逆に催眠の工夫研究から得たものを禅修行に役立てることができたりしてきた。

 理性的、客観的な態度の対極にある忘我(感情移入)状態。それをいろいろ工夫研究していくうちに、さらに見えてきたのは「私たちの意識が、驚くべきレベルの勘違いをしている」ということである。この意識の勘違いを「利用して」成り立つのが催眠である。また意識の勘違いを「正して」成り立つのが悟りである。このことは後に詳しく述べる。

和風な心身体相関の地図

 催眠や禅の体験学習の過程で最終的なキーワードとなった自我意識の勘違い。考えてみればそれは悩み苦しんで来談したクライアントが、本格的なカウンセリングや心理療法で取り組むさいのキーワードでもあった。行き詰ったクライアントが、新たに、いきいきとした生き方を手に入れるには、今までの在り方に変わる新たなあり方(アイデンティティ)の獲得が必要となる。それにはまず、それまでクライアントが当たり前と思っていた自分の在り方、考え方に偏りがあったことに気づかねばならない。この課題は個人差はあるにしても、かなりの難題である。

 そんな自我意識の勘違いが起こる部分を言い表す言葉を列挙してみると「思い込み、決めつけ、観念、概念、価値観、信条、思想、物語、神話」などがある。気づきや洞察というのは、このような、人が自己を支えるためにそれと知らぬ間に持ってしまった枠を取り払うさいに立ち起こってくるものである。

 ところで禅の修行でも「死に切る」などという言葉があるように、悟りは切羽詰まったギリギリのところでようやく手に入るようなものである。本格的なカウンセリングでの洞察もしかり。クライアント自らが、自分を根底から揺るがしかねない自分(のあり方)に向きあい、カウンセラーと根気よく話し合いを続ける中で、苦しみや悲しみを伴いながら気づきに至ることも多い。両者ともにそれは心の大作業となる。

 しかし、気づきや洞察、悟りを得るためには、心の大作業が必須であるにしても、その道しるべとなる地図はあった方が良い。例えば禅の世界では、何十年も実のりない間違った方向の修行をまじめに続けてしまっている人もいる。また禅修行の過程で自己を忘じた素晴らしい神秘体験をしたことで逆に、その体験がこだわりとなってしまっている人も多い。禅仏教の世界では驚くほどに間違った教えが横行している。催眠にしても相変わらず「意識は氷山の海面に出た一角のように微々たるものである。海中にある氷山のように、無意識には80~90パーセントの潜在能力が眠っている」などと、未だにフロイト流の意識、無意識理論を元に据えたままである。

 「禅も催眠も古い時代に固着したままではないか。新しければ良いというのではないが今の時代性にマッチした、より良い道しるべとなるものがほしい。何かないか」などと考えている中で思いついたのが、和風心身相関図である。読者の方にもいろいろ言っていただいたりして、これをたたき台にしていけばより良い心と身体の地図ができあがるのではと思って期待している。

 近代的な心理療法はフロイトやユングの無意識の提唱で幕を開けた。日本においてもそのフロイト、ユングにおける意識/無意識の心の構造図は氷山などに例えられて、一般にまでも知れ渡っている。ところで近年では心理療法でもマインドフルネスなどといわれて禅仏教など東洋思想への傾倒がいちじるしい。けれども東洋的なもの、特に禅に関しては言葉以前のありようであるため、フロイトの意識/無意識の図のようにわかりやすくは図式化しにくい。古くは中国宋代の廓庵禅師による十牛図があるが、それ以外には見当たらない。今回はそんな言語化しにくい禅のあり方を中心にすえて、日本的な視点から見た心身体相関図としてまとめてみた。

 この図はとにかく意識の勘違いを可視化して気づけるようになるのを第一の目的として作成した。まだ不充分でわかりにくい所もある。でもこの図からだと催眠誘導がどうして成り立つのか、その本当のところの説明もやりやすい。また、禅仏教での悟り体験において自我をなくして、今(の事実・宇宙)に委ねるようなあり方の説明も可能である。この図を地図のようにして、まず意識の勘違いを正しく理解して後に精進していけば、間違った方向に迷い込まないで進んでいけるようになると思っている。

日本の催眠界をリードしてこられた成瀬悟策先生の「主体」論

 和風心身相関図は、戦後の日本の催眠療法界をけん引してこられた成瀬悟策先生の考えを元に、私がかってに発展させたものでもある。以下は2005年に成瀬先生が雑誌のインタビューに答えている中からの抜粋。

 インタビュアー…… 「主体」というのは、今までにない発想ですね。

 成瀬……すべてひとりの人なんです。ただ意識にのぼっていないだけで。意識と無意識を区別しているとわからなくなってしまう。だから何もかもいっしょくたなんだと(笑)。それが「主体」だというわけです。〈…中略… 〉身体というのは動くようにできているものなんです。生命維持活動を起こし、進める根元のものを主体と呼べば、それは出生直後から活動せざるを得ない。その最初から主体は動作による活動から始まるわけです。

〈…中略… 〉そういう原始反射みたいなものは組み込まれている。後になって意識といわれるようなものはないけれども、それなりに状況を判断し、適応的決断、対応を適切にやっているのが主体の活動なんですね。……

 良くいわれることだが、西洋人は心理療法やカウンセリングの場では日本人にしてみたら驚くくらいに言葉での解釈や心理分析にこだわると言われている。要するに理屈っぽい。その辺りのことを成瀬先生はインタビューの他の所で「…… ヨーロッパやアメリカで発展した精神分析や心理療法は、結局意識的にわかること、知る事、理解することが大事だと思っている。それは伝統的に、考えたり、知ったりすることが人間として生きている証だと考えていたからじゃないですか…… 」と述べ、心理分析や解釈に重きを置く西欧的なやり方を、治りにくいとまで言っている。そして後年ご自身で開発された身体からのアプローチによる動作療法を主張している。

 成瀬先生は人間に生得的にある生命活動の動作をつかさどる元を「主体」という呼び方で述べている。確かにフロイトの意識・無意識の区分けには身体的なものがまったく含まれていない。近年の欧米諸国でのヨガブームは、このように精神面に偏りすぎてきた欧米人がヨガによって身体性を再発見しているのだといえそうである。

 フロイト、ユングの心の構造は身体で言えば脳内の精神活動(思考とイメージ活動など)に相当する。

成瀬先生の「主体」とブッダが2500年前に悟った「仏性」

 ところで成瀬先生をインタビューしたインタビューアーは「主体」というのは今までにない発想などと感心している。でも実はこの辺りのことは、すでに2500年前のお釈迦さんを始まりとして禅の祖師方が「事実は今の瞬間にたち起こり消えている。人間が手を出す前に…」などと、悟り体験をしたさいの発見として連綿と言われ継がれてきたことである。禅仏教でいわれる「悟りとは私たちは元来そのままで仏であることに気づくことである」という「元々の仏」が成瀬先生の言われる「主体」に相当することになる。

 そこで私は禅修行から学んだ、人が本来持っている(仏性)と成瀬先生の「主体の活動」と呼んでいる辺りを重ね合わせて図式化してみた。禅仏教の方が成瀬先生の「主体」という意味合いより、より広く、今に生滅して変化し続けている環境や宇宙まで含んだものという違いはある。

和風心身相関図

 充分に成功しているとはいいがたいが、この和風図には身体の枠組み以外に環境などの現実界も繋がったものとして組み入れてある。人間は植物などより環境と切れた存在のように思える。例えば一本の木にしても、大地に張ったその根っこをすべて可視化して見たとしたら、それだけでその木がいかに環境と繋がっているかわかるだろう。その根っこは大地から水を吸い上げ、葉っぱは太陽の光と、空気中の二酸化炭素で光合成をおこないながら生きている。そこで「ああ植物は地球環境と切っても切れないほどに繋がっているものなんだな」とわかる。

 人間の場合は単体で移動もできるせいか植物より自然との繋がりは感じにくい。人間が環境と直接に繋がっているといえば呼吸くらいに思う。でも人は思った以上に環境とひとつなのだ。いや禅に言わせれば、今においては全てが一体で、そちらこそが事実なのだという。私たちの理性が勝手に区分けして別々に見るようになってしまったのだという。

図の上部に身体と環境とに渡って書いてある//同期現象//とは

 同期現象は自然界の様々な場面で発見されている。特に生物に関わることが多い。例えば一本の木にたくさんホタルが集まると、皆同じタイミングで点滅しだして大きな光を作り出す。鳥やカエルには周りの仲間たちと同じ周期で鳴くことで大きな音を作り出す種が発見されている。

 人対人でも、会話中の二者間の体動が同期するなど、コミュニケーションをとっている二者間において、体動などの動きが同期するといった現象がいくつか報告されていた。 そこをより詳しく観察研究した、岡崎研究員と定藤教授らの研究グループは今回、会話などの手段が無くても二者がただ見つめ合うだけで、小さな体動が二者の間で時間遅れなく同期することを発見した。〈…中略…〉通常(意識的に)相手の体の動きを見て自分の体動の制御をする際は、二人のうちの一方のみが意識的に体動の調節を行っても、同期に時間的な遅れが生じる。しかしヒトは日常生活の中で、コミュニケーションの最中に無意識的に体動を同調させている。お互いがコミュニケーションをとる間にやり取りする視覚による体動制御が対等になることで、はじめて時間的な遅れの無い同期が可能になるようだ。

 この発見は、禅仏教で常々言われてきた「今の瞬間においては全てが繋がっている」ということの裏づけになりそうなものである。別個の存在と区別し勘違いしていることで見えなかったが実は元々そうであることが、次第に見えはじめてきているのではないか。また同期現象の有様を見ていると、ユング心理学でいわれるシンクロニシティ(共時性・意味のある偶然の一致)の事象と関連がありそうにも思えてくる。

図の身体の周辺に書かれてある仏教用語の六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)とは

 般若心経では「…無眼耳鼻舌身意,無色声香味触法…」と続く。無色声香味触法は形(色)・音・香・味・触覚・心ということであって直前の眼耳鼻舌身意に対応している。「…あえて物を見ようとしなくても(無にして)目を開ければそこに形(色)が生滅する。あえて聞こうとしなくとも(無にして) 声が生滅する。あえて味わおうとしなくとも(無にして)お茶を飲めばお茶の味が生滅する。そんな今の瞬間に眼や耳や舌などの実体は無い …」というところか。

(今)は瞬時に生滅する

 図の中の①…②…③はベンジャミンリベットの実験例。自動車を運転している時に子供が飛び出してきた(事実①)足でブレーキを踏むのが0.1秒後(無意識的身体反応・動作②)そしてその0.3秒後に(③意識)で 「ああ、危なかった」と思う。身体も意識より早く0.1秒でちゃんと対応済ましているのだ。ベンジャミン・リベットは、意識は常に0.3秒後なのに今ブレーキを踏んだとも思っていて、勘違いしながら後追いしているという。

 ところで、図の中の今①②③を取り巻く半円の矢印は、瞬間に生滅する今のありよう。その瞬間に生滅する今の速さには取りつくしまがない。時がないのだ。時系列的に数字で順番に表しているが、例えば③の「ああ、危なかった」と意識で思った時には、ああ危なかったとの思いが今、生滅しただけであって①の子供の飛び出した今も②の足でブレーキを踏んだ今もすでにない。

生まれた時点でスイッチオンしてる身体の機能

 例えば「耳で音声を聞く」というが、録音機なら確かに音声を記録しようと機器のスイッチを入れて、そこから録音が始まる。もちろん人間の場合も同じように、あえて耳をそばだてたり、澄ましたりして特定の音や声に集中しようとすることはある。けれどもそれだけではない。それ以外に、あえて聞こうとしなくともすでに音や声はそこにあってすでに消えている。人間は、そんな体験をし続けているのである。目にしても、ビデオカメラのスイッチを入れてから撮影すると同じに、特定のものをよく見ようとする行為はある。けれどももう一つ別のあり方がある。目を開けばそれだけであえて見ようとスイッチを入れなくても、すでにそこにものがある。

 仏教でいう六根、目・耳・鼻・舌・身・意は、それらの機能的な障害がない限り、赤ちゃんを見ればわかるように、意識があえてスイッチを入れなくても生まれた時点から全てスイッチは入りっぱなしなのである。もちろん身体全体がスイッチオン状態でそれぞれにうまく機能している。無意識のうちに適材適所、臨機応変で環境に対応しているのである。禅の言いたい「我を捨てよ」とはこれら「宇宙の生み出したあり方に学べ」である。考えてみれば人間の知恵は、宇宙の知恵には到底届きようがない。そんな取るに足らない人間の知恵(科学だけ)でうまくやろうなんて、思い上がりもいいことといえる。

 しかし、この宇宙から授かった身体の機能としての働きはあまりにも多大で、それをいちいち意識していては人間やっていられない。またこれらは生まれてからあまりにも当たり前に無意識的なので、気づかなくなってもいる。おまけにその動きがあまりにも素早すぎことが重なる。そこでリベットの実験からわかったように、意識自体があたかも自分でやっているように勘違いしてしまったのだ。おまけに、生きるにうえにおいて意識は、自らの知恵をよく巡らせれば必ずうまくやれるとも思っている。これらのことから自我意識はものすごい勘違いの思い込みの上に立ってしまったのである。

意識の勘違いを「正して」成り立つ禅の悟り

 通常私たちは事実と想像したことをごちゃまぜで用いている。事実を推測や想像や思い込みで繋げて安心したり、その逆に不安になったりしている。具体例をあげてみると、人はまず言葉を使うことで既にバーチャルの世界に入り込む。例えばリンゴを食べたことのない人にリンゴの味をいくら言葉で説明しても、実際にりんごを食べてもらうことがなければ、本当の味はわからないはずである。けれども人は物事を言葉から理解しようとするさいに、その背後ではそれと知らぬ間に想像力を働かせて、イメージ体験をしながら理解しようとする。リンゴの味の説明を聞いていて、実際リンゴを食べたつもりになるのである。 他にも小説を読んだり映画を見たり、物語的な語りを聴く場合などに、まるでそのものを実際に体験したつもりになってしまう。そして時に、事実や現実とそれとの混同から問題が起こることもある。

 でもこの想像力(イメージ力)自体の働きはとても素晴らしいものでもある。自分が実体験していないことをまるで体験したかのようになることで、それに対する理解と親和性がより深まる。すぐれた文学を読むことで人の心に対する理解が深まる。時には自分が体験したことと同じことを物語や映画、文学などによって再体験することで心が開かれ、自分の体験がより広まり深まる場合もある。

 文学者大江健三郎は少年時代に映画によって、さして風がないようなのに桜の木の枝や花が、小刻みに震え続けるのを見てわが目を疑った。その後に自分の生活圏の樹木と草の細部を見つめるたびに、樹木の小枝や草の葉が常に揺らぎ、本当には静止していないことを確認した。そしてそれまで多くの樹木や草に取り囲まれていながらそれを本当には見ていなかったのだと気づいたという。

 大江健三郎氏の例と同じでなくとも、自我意識に偏りがあっったり心が開かれていない場合は、せっかくの生の体験がその自我意識の枠や縛りに切り取られてしまう。存在の方そのものをズバリ体験しないで素通りしてしまうのである。十人十色というが、これがあるために物事の受けとめ体験には個人差がある。いや多くの人が上滑りな体験や偏った受けとめ方で日常を生きているといえるだろう。芸術の役目はこの閉じた自我意識の枠を、絵画や文学やその他の表現方法によって破壊しながら、人がより存在の本質を体験できるように導くことだという。

 催眠はこの、人の持つイメージ能力を利用して個人の心身の能力を開発、発展させようとするのである。参考ページ:『催眠療法の長所』 しかし、そうそう喜んでばかりはいられない。世界に面々とつづく繰り返される争いの背景に、悔しさや恨み、それに準ずる感情に彩られた物語や伝説がある。それらは自らの体験でない場合でさへ、激しい感情と共に心身に強く刻み込まれてその人の一生さえ左右してしまうのである。イメージ体験はその心身に対する影響力で、もろ刃の剣として人々に強い影響を与えてしまう。

 睡眠中に見る夢を思い出すと了解できるのだが、人の身体はイメージや想像に連動して思った以上に強く反応しているものなのである。例えば予期不安によって、ストレスで体調までおかしくなる。極端な場合は、悪い方への想像が強ければ強いほど身体もその気になって、血圧も上がれば胃やその他の内臓も委縮したり筋肉も硬直する。マリーアントワネットが処刑が決まって、一夜で白髪になったという話は極端かもしれない。でも実際に、強いストレスがあってから数日で白髪になったという話は多い。案ずるより産むがやすしという格言があるが、動物と違って事実より想像(案ずる)にやられてしまうのが人間なのである。

 そのようなイメージ力を禅では否定する。インドから中国に来て面壁九年といわれるまでに坐禅し続けていた禅宗の始祖達磨大師。その達磨大師に、のちに第二祖となった慧可禅師が(元から腕がなかったため、後からこの伝説が作られたともいわれてもいるが)自分の腕を切り落として命がけの教えを乞うた。慧可「心未だ安んぜず、乞う師安心せしめたまえ」達磨いわく「心を将(も)ち来たれ、汝が為に安ぜん」慧可いわく「心をもとむるに了(つ)いに不可得なり」達磨云く「汝が為に安心せしめ。竟(おわ)んぬ」

 達磨大師に心を持ってこいと言われて慧可は不安な心を探した。その時の彼の中には「不安を捜している」という今の事実しかない。だから不安は見つかるはずがない。それを指摘されて直下に慧可は大悟したという。慧可は自分の勘違いに気づいた。それまでは「不安を何とかなくしたい」と思う慧可の思いが、実際はとっくに生滅している不安を、常に今そこにあるもののように勘違いしていたというか、呼び覚ましていたといえるのではないだろうか。

 禅では想像や記憶などと事実を区別できるようにと強調する。それによって自我意識の勘違いを見抜けるようになるからである。人は通常、理想を描いてそれに向かって努力して物事を成し遂げていくのが当たり前の手法となっている。人は何事もそうして成長していく。例えば優れたピアニストも過去には、あのピアニストのようになりたいと思う、あこがれのピアニストがいたはずである。その人に近づこうと努力したことで自分もプロの演奏家になれたという人がほとんどであろう。何事もそうである。

 同じく禅を学ぼうとするにあたって、よりよい理想の境地を獲得したいと目標を立てたからこそ禅修行に入ったのである。理想の境地に達したいと思わなければ禅修行に興味を持つ人はだれもいないであろうに。でも禅問答ではそれを頭ごなしに否定する。たまったものではないが、それは自我意識の勘違いを正そうとしているからである。悟りの境地は自我意識で努力して作り上げるものではないのだ。

 それは人の手を離れたところにある。新潟の東山寺で教えを説いた川上雪担老師は「禅の修行は学校の勉強とは真逆の道である」と常々言っていたそうである。これなどはとても親切な教えといえる。でも私たちは「よく考えて答えを出す」というのが最高の手法であると思い込んできたためにそれを認めがたい。禅の手法がなかなか了解しにくいのは、実はこちら側にそんな大きな勘違いや思い込みがあるからなのである。

 悟りとは、自我意識の勘違いを正して、心身が持っている機能の働きに、すべて委ねることといえるだろう。静岡にある耕月寺の甲賀祐慈老師は、接心の提唱において「いわゆる悟りというのは、考えの上での間違いを知って、間違った事を改めればいい。間違った事を改めるから迷わなくなる。たったそれだけの事なんです」と言い切っている。禅の祖師方は事実と思ったこと想像したことを区別できるようになって事実主体でやっていけば苦悩はなくなるという。 悟った視点から見ると、私たちがいかに勘違いしているか、思い込みしているかが良くわかるようである。

意識の勘違いを「利用して」成り立つ催眠誘導

 この図にのっとって催眠誘導法が成り立っていく様を説明してみよう。催眠では、先に説明した同期現象に見られるような動きや、図②のところで無意識的に起こる身体の反応や動作などを「自分がコントロールしている」と勘違い君な③の意識に、催眠誘導テクニックを使って「ほら、あなたがコントロールしなくてもちゃんと動いてしまうでしょう」などとデフォルメして見せる。そこで意識③は、いつもは自らがコントロールしていると思い込んでいた動作が自分を離れて、まるで誘導者に手繰られているかのように、自分の意志とは関係なく動くという他動感を感じてしまうのである。

 催眠は、そのような意識の勘違いをより際立たせることで自我意識の働きをくい止め、忘我状態に持ち込む。後は暗示イメージで被催眠者を順次リードしていくのである。催眠の理論やより詳しいその仕組みについては、このサイトの他のページに詳しく書いてあるのでそちらを参照していただきたい。『催眠の正しい理論』『 意識の勘違い(心と身体と催眠)

和風心身相関図の足りないところ

 禅では自我の崩壊によってなる精神病などの幻覚や妄想状態やいわゆるスピリチュアル的な現象などは全て妄想ということでかたづけられしまう傾向がある。それもあってか、和風の心身相関図だけではイメージに関する位置づけができない。催眠の視点で見ると、忘我状態に導くまでのことは、この図でかなり了解できる。でもその後に暗示イメージを多用して催眠療法を行ったりする辺りになると可視化できない。そこについては、やはり精神面を表したフロイトやユングの図からがわかりやすい。

 そこで相いれがたい両者を無理やりくっつけてみた。フロイトの図は垂直軸に、和風の心身相関図は水平軸に位置づけて、意識・自我の部分を重ね合わして二つの図を合体させると、心・身体・環境を合わせた統合図となる。横軸に現実界と縦軸に精神界の統合図ができた。

禅仏教の良い所

 自我意識は、理性でもってよく考えて現実世界に適応したり、理性でもって現実世界をコントロールしたりして人間がより良いと思う方向に変えて行こうとする。しかし、現実世界を理性でとらまえてフィードバックしたりしていると、今、今の変化に後れをとる。また精神性を大事にするあまり、現実に戻り切らずにバーチャルの世界にとどまりつづけることにもなりかねない。

 対して禅仏教的には、理性より自然の摂理(法則)の方が偉大なのだから、それに委ねて生きればよい。計らい(理性)は諸悪の根源で、かえって悩みを作り出すし、迷いを深めるのだとなる。江戸時代の曹洞宗の僧侶である良寛が七一歳の時、住んでいた新潟の三条に一千五百人以上の死者が出る大地震が起きた。その時、子供を亡くした山田杜皐に送った見舞い状には「…災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」とある。よくそこまで言えたもんだなあと、凄すぎてついていけない境地だが。

 私個人に限っていえば確かに、自分の知恵でもって工夫して自分の望む結果を出すことが良いことである。と思い続けていた。そんな価値観で物事を見れば必ず、良い悪いや、うまくいった、失敗したなどの判断がついて回ることになる。でも井上貫道老師の法話に「……転んだりなんかすると「あっ、失敗した」と思う。でもそれは、そう「思う」ことであって目の前の事実は違う。歩いていて転んだら、転んだようにあるだけ。それで何も悪くないのです……」というのがあった。それで私は「なんだ、私はまるで自分の知恵が宇宙で一番優れてでもいるかのように自分の出会う出来事をいちいち判断して、できるだけ良い方向に向かわせるにするには、などとやっていたんだな」と気づかされた。今でも悪い結果が出れば嫌は嫌だが、貫道老師の言うように思えたら、良寛さんにはまったく程遠いが、ちょっと肩の力が抜けて楽にやっていけるようになった。

 繰り返しになるが、禅仏教では人間が認識する以前に働いている自然の摂理(法)に勝るものはないとして、それに我を委ねて生きることが仏教徒だという。しかし、そのような自我をなくした禅仏教のあり方の弱点として、個人の責任が曖昧となってしまう危険性がある。特に仏教的なあり方を表面的に受け止めた場合にこのようなことが起こりうる。日本の組織内で問題が発覚した時には、常にといっていいほどその責任の所在がはっきりしない。それは日本では、この仏教的な我を殺すようなあり方と同じものが組織内に働くがための悪影響といえるだろう。我がないのだから自分の責任を持とうにも持てないのか。

 我を忘れて一心不乱に板木に向かった版画家、棟方志功。彼は常々「私は自分の仕事に責任を持っていません」と言っていた。また「いま仕事をしているのは、われではない。仏様だ。われは仏様に動かされて動いているだけだ」とも語っていたようである。もちろん彼は無責任で構わないと言っているのではない。逆に、彼が人一倍自分の責任を感じる所がある人だったからこそ、このように言えたのではないだろうか。

西欧と東洋のあり方とユング心理学

 ユング派心理分析派の林道義先生は『C・G・ユングと東洋思想』という書籍の中で「……ユングは、東洋の諸思想が西洋文明の失ってしまったものを高度に発展させているとして、そこから西洋人は学ぶべきであると忠告しているが、しかし西洋人が単純に東洋文化をそっくりそのままの形で輸入すべきだとは考えなかった。それは東洋もまた西洋とは逆の意味で一面的だと見ていたからである。〈…中略… 〉西洋は意識に東洋は無意識に一面化しているというのである。したがって、もし西洋が東洋文化を丸ごと輸入すれば、それは一方の極端から他の極端に振り子のように移動したにすぎず、それは悪しき補償行為にすぎない……」と述べている。

 確かにその通りであって、この点は東洋の側もよくよく留意すべきである。しかし禅仏教は西洋的な個人主義(自我中心主義)を認めないからこそ成り立っている。私は悟りえていない(自我を捨てきれていない)からこんなふうに考えるのであるが。ここはぜひ、実際に悟り体験を経た方々に、林先生がまとめてくれた、ユングのいうところの西洋、東洋が共に一面化しているという考えについてどう思うか詳しく聞いてみたいところである。

 ……ここでは西洋対東洋という対立する区分けで論を進めた。けれども『ケン・ウィルバーの意識のスペクトル」』というセラピーに重点を置いた捉え方がある。それはまず意識が、自ら境界を打ち立て打ち立てしながら発達/変化してきた過程を、意識のスペクトルとして基礎にしている。そしてその境界枠内のそれぞれの位置に西洋の心理学から神秘主義、そして東洋的な修行方法などのさまざまなセラピー的なものを配置している。それを見ると、全体的な位置関係が見渡せるので、フロイトの心理学はこの側面の境界の解放を目指しているな。また禅仏教はこの側面の境界を解放しようとしているのだな、などとわかってくる。さまざまなセラピーや修行方法が、どれが優れているとか良い悪いなどという比較されるものでなくて、それぞれに役割が違っていることがよく了解できるのである。『無境界―自己成長のセラピー論』……

 私たちは日本人はすでに、西洋かぶれや科学かぶれによって、先に林先生が例えた振り子のように、振り子の反対の極まで振り切ってしまっているのではないか。それでいながら正月には初詣に行く。これは日本人の無意識的な宗教性や素晴らしいバランス感覚のなせるわざなのか。いやそうでなくて、深みなどはとうに失せてしまって、一方の極端からもう一方の極端に行ったり来たりしているだけではないか。そんな根無し草になってしまっている私たちは、日本的あり方も西洋的あり方も、そのどちらも根底から学ばねばならないという大変な状況下にあるのではないだろうか。

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