催眠の正しい理論

催眠を定義づける

 今現在まで催眠についての理論というものはハッキリしたものがなくて何々説などというような、そのどれもが曖昧で不十分なものであった。でも私からすると催眠とは、被催眠者が知性や批判力などの自我意識を放棄し、催眠誘導者に自己を委ね、我を忘れて催眠誘導者の提示する暗示やイメージの世界に感情移入(集中・没入)していく行為であると定義づけることができる。

 催眠誘導をする側からいうと催眠は催眠誘導者のリードする(暗示やイメージの)世界に被催眠者を感情移入させる心理技法である。くだけた言い方だと、その気にさせるテクニックといえる。被催眠者を忘我状態に導くために、催眠には私達の自我意識が大きな勘違いをしている点を逆利用した催眠特有のテクニックがある。

 シュヴリゥルの振り子運動(観念運動)というのがある。糸の先におもりをつけた振り子を手で持ち、目の前にかざしてその振り子を意識的にわざと動かすのではなく「動く、動く」とまるで念力で動かすようなつもりで念じる。素直に集中すればするほどに、その振り子が大きくゆれ動いてくる。そのように振り子を動かしたことが全く初めて人でも、前後、左右にそして回転まで手が勝手にやってくれたりする。意識的にわざと動かそうとしないでも自然に手が動くので、初めて体験するほとんどの人が非常に不思議な感じ(他動感)を持つのである。

 それは実は私達が自身の動作に関して大きく勘違いしているところがあって、それで不思議に見えてしまうのである。私達は通常、身体は私(自我意識)が自分でコントロールしていると思い込んでいるので強くハッキリした他動感が出ると、それこそまるで催眠誘導者に手繰られて動いてしまっているように見えてしまう。でも実はそうでないことは、美味しいものを見たり、時には想像するだけでも口中に唾がたまったり、音楽のリズムに合わせて我知らず身体を動かしていたりすることなど、振り返ってみれば身体が意識のコントロール外で勝手に動作しているような、特に、それと気づかない範囲の微細な他動感は日常茶飯事であることからも伺える。「心と身体と催眠(意識の勘違い)」のページにより詳しい説明あり)

 シュヴリゥルの振り子運動は身体の微細な動きを糸に吊るした振り子の大きな揺れとして際立たせて見せるので、他動感はより拡大される。他動感を感じた被催眠者は「あ、自分のコントロールがきかないところで身体が勝手に動いている(催眠にかかっている)」などと思い込んで自我を手放し催眠状態に入り込んでいくのである。催眠誘導技法といわれるものは全て、シュヴリゥルの振り子運動と同様に他動感を感じられるようにとの工夫がなされている。逆に言うと、催眠誘導者がどのような高度な催眠テクニックを用いたとしても被催眠者当人が他動感を感じなければ催眠に入ったとはいえないのである。

 催眠を用いる側から定義し直してみると催眠とは被催眠者の想像(イメージ)力や他動感を強調拡大することによって批判力などの自我意識(知性)の働きを弱め、我を忘れ、我を委ねさせるようにしながら催眠誘導者のリードに没頭(感情移入)するよう導いていくテクニックといえる。

さまざまな催眠の定義の検討

 さて、先に催眠に関しては未だに統一された理論がないといったが、ネット上に公開されている催眠に関するさまざまな定義をピックアップしてみた。それらをよく検討してみるとそのどれもが自我(意識)の視点から一面的に述べてしまっている。そのため自我意識自身が我をなくしていく状態を説明し切れていないし自我意識自身が勘違いしている点も見抜ききれてない。またその多くが催眠をいたずらに複雑に定義しすぎていたり、催眠の本質から外れた枝葉の部分を述べているにすぎないものもある。

 また催眠状態は「感情移入(集中)」と「自我放棄(移譲)」と「他動感」の三つでほとんど説明できるわけだが、ここにピックアップしてみた定義の中にはこの三つと同様のことが、違う言葉でしかし充分には言い切れないままに言われていたりもする。

・アンサリ: リラックスと一定の注目と暗示の組み合わせによって個人の内に生まれる選択的な被暗示性という、ある種の変性意識状態だ。

・ソルター : 「条件付け」の一側面にほかならない。

・マルサス : 催眠の基本は変性意識状態であり、通常それは刺激のくりかえしによって生み出される。その状態にあると、平常の意識状態よりも暗示(その定義はさまざまでも)が効果的にはたらく。

・ボウアーズ : 暗示の作用が高まる変性意識状態である。

・ハル: 信頼できる暗示に対して相対的に影響されやすくなっている状態をいう。

・ミルトン・エリクソン : ひとつの考えまたは一連の考えに対し、集中した注目と受容性を保った状態である。

・成瀬悟策 : 催眠とは人為的に引き起こされた状態であって、いろんな点で睡眠に似ているが、しかも睡眠とは区別でき、被暗示性の高進および、ふだんと違った特殊な意識性が特徴で、その結果、覚醒に対して運動や知覚、記憶、思考などの異常性が一層容易に引き起こされているような状態を指していう。

・ウェイツェンホファー : 催眠とは「ある考え」を受け入れる意志があるか、そしてその考えに干渉することなく自らを従わせる意志があるかだ。その場合の「ある考え」を私たちは「暗示」と呼ぶ。

・カブリオ&バーガー: 催眠中は潜在意識に理屈付けの力がなくなっているので、意識的にあたえられた事実または暗示を受け入れ、そのとおりに行動する。

・グラズナー: 催眠はリラックスを生み、潜在意識を休ませ、被暗示性と気づきを高め、イマジネーションを通じて潜在意識にふれるプロセスである。催眠はまた、思考とイメージをリアルに体験する状況をつくりだす。

・アメリカ心理学会催眠部会 : 催眠とは、クライアント/患者/被術者に対して、感覚/知覚/思考/行動の変化を経験するよう、医療の専門家および研究者が行う暗示の手続きである。

 ここにピックアップした定義の中にもよく用いられている催眠用語として催眠に入った状態を学術的には「変性意識」という。でもこのように学術的にとの考えから作り出された語を用いると催眠状態はことさら、何か特別な意識状態のような印象をうける。この言葉自体が逆に催眠状態を規定することになりかねないのである。催眠は自我意識の思い込みを利用して成り立つテクニックであるが、この場合、変性意識という言葉が「催眠とは変性意識状態になるものなのか」との思い込みを作ってしまって催眠を難解なものにしつらえてしまうのである。冗談ではあるが、だから催眠を研究する学者さんたちが催眠誘導すると深く入れない人が多発するのである。

 「変性意識」などという言葉で定義して、いかにも特別な意識状態のように考えているけれども、よく考えてみれば我を忘れて何かに夢中になってあっという間に時間が過ぎることは日常茶飯事である。それは様々な物事に我を忘れて没入している感情移入状態である。深い催眠状態にある人は催眠誘導者のリードする暗示やイメージの世界に心身ともに没入しているのでリラックス暗示を与えられれば深くリラックスするし、悲しみの暗示を与えられれば涙を流して泣いてしまうのである。それは日常において映画を夢中で観ている時とほとんど同一の意識状態である。日常での忘我状態と催眠での忘我状態、そのどちらも共有できる言葉としては「我を忘れ(預け)て感情移入(集中)した状態」というのがより正確で適切であろう。

 日常での感情移入状態と催眠でのそれとの違いはコミットしているものが催眠誘導者の提示するものかそうでないかの違いと、我を忘れて没入している強さにその時々で差が出てしまうだけのことである。

 この日常での忘我状態と催眠での忘我状態、そのどちらも共有できる言葉としての我を忘れ(預け)て感情移入(集中)した状態というのは実は、上にピックアップした催眠の理論(説明)の中のミルトン・エリクソンの論である「ひとつの考えまたは一連の考えに対し、集中した注目と受容性を保った状態である」というのにほとんど等しい。違いはエリクソンの方が平易な言葉で述べているだけである。ただエリクソンの催眠の説明には「催眠誘導する側とされる側の関係性」が含まれていない。そのため催眠の理論となるとエリクソンの説明では不十分といえる。

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